藤原栄善 EIZEN FUJIWARA

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@eizen_san

兵庫県西宮市にある高野山真言宗 鷲林寺住職です。声明(しょうみょう)を専門としております。声明とは仏教音楽です。声明という音楽を通して人々が幸せになって頂けたらと願います。西宮市鷲林寺住職/高野山増長院兼務住職/高野山専修学院能化/兵庫県仏教会副会長/密教/仏教/真言宗/高野山/弘法大師/南山進流声明/六甲修験/読書

兵庫県西宮市 Beigetreten Eylül 2018
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人は、ときどき 「自分は一人で生きている」 と感じてしまうことがあります。 誰にも分かってもらえない。 自分だけが取り残されている。 そんな孤独を感じることもあります。 しかし密教は、 この世界をまったく違う姿として見つめます。 私たちは、 自分一人の力で生きているのではありません。 命を与えてくれた人がいます。 支えてくれた人がいます。 言葉を残してくれた人がいます。 名前も知らない多くのいのちに支えられて、 今ここに私たちは生きています。 そして密教は、 その無数のつながりの中に、 仏の智慧と慈悲のはたらきが満ちていると見つめます。 つまりこの世界は、 ばらばらに存在しているのではなく、 仏の命の網の中に生きている姿だというのです。 人が菩提心を起こし、 仏のはたらき(三密加持)と響き合う時、 その人は、この大きなつながりの中に 自分が生きていることに気づいていきます。 それが『即身成仏義』のいう「即身」です。 即身とは、 特別な姿に変わることではありません。 この身このままで、 すでに仏の命の網の中に生きていると知ることです。 人は、ときに迷います。 自分を見失うこともあります。 それでも、 菩提心という願いに帰る時、 私たちは再び、この大きなつながりの中に立ち戻ります。 密教は、 その歩みそのものを、 成仏の姿として見つめているのです。
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即身成仏とは、 何かを新しく得ることではありません。 弘法大師は説かれます。 私たちはもともと「薩般若(すべてを見通す智慧)」を具えていると。 それは、知識のように頭に蓄えるものではなく、 “響き”のようなものです。 たとえば声明(しょうみょう…仏教音楽) 声は形がありませんが、 確かに心を動かします。 音は外から来るようでいて、 実は自分の中にも響いている。 仏の智慧も同じです。 遠くにあるのではなく、 すでにこの身この心に満ちている。 それに“気づいたとき” 響きはそのまま仏のはたらきとなる。 それが、即身成仏だと大師は仰っているのです。
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人は本来、仏の性質(目覚める力)を持っています。 これを「もともとの目覚め」と言います。 しかし、普段の生活の中では迷いにとらわれています。 その中で、 「あ、そうだったのか」 と気づく。 これが「あとからの目覚め」です。 つまり、 もともと持っているからこそ、気づくことができるという関係です。 もし最初からその力がなければ、誰も悟ることはできません。 だからこそ密教は、 「すべての人に成仏の可能性がある」 ということを大前提としているのです。
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智慧とは、 “自分はすでに大丈夫だ”と知る力。 そしてそれは、 遠くにあるものではなく、 今この瞬間のあなたの心、そのものです。 「知足」と同じです。 足りないから満たすのではない。 すでに満ちていることに気づく。 気づきが大切なのです。 例をいくつか挙げましたが、余計なものは捨てるというのも「智慧」であるという意味に繋がるのではないでしょうか。
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「余計なものを削るというのも智慧である」というお話をいくつかの例を挙げて述べてまいりました。 実はこのお話、私が若い頃にご縁をいただいた仏師の先生から、最初に教えていただいた言葉です。 そのとき、目から鱗が落ちる思いがいたしました。 私達、仏師は仏像を彫っているのではない。余計なものを削って、そのお姿をこの世に出すお手伝いをしているだけなのです。もともと仏は木の中におられるのです。 先生のお言葉は、まさにそのまま「智慧=削る・捨てる」という仏教の核心を表していると思います。 仏像は“新しく作る”のではなく、すでにそこにおられる仏を、余計なものを削ることで顕す。 これはそのまま、私たち自身の在り方にも重なるのではないでしょうか。 私たちもまた、何かを付け加えて仏になるのではなく、 もともと具わっているものを、覆っているものを外していく。 執着や思い込み、無理をしている自分、 「こうでなければならない」という重さ…… それらを少しずつ削っていくことで、 本来の自分の姿が自然と現れてくる。 まさに密教でいう「本来具足」「即身成仏」の実感そのものですね。 仏師は木を削って仏を現します。 私たちは心を削って、本来の自分を現すのです。
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弘法大師は、すべてと無理に交われとは仰いませんでした。 むしろ、 善き人に近づけば善に染まり、 そうでなければ、その影響を受けると示されています。 また、志を同じくする者と交わることの大切さも説かれています。 これは言い換えれば、 「縁を見極めよ」という教えだと思います。 合わない人から離れるというのは、相手を否定することではありません。 無理をして関わり続ける自分、 嫌われることを恐れて縛られている自分を、そっと手放すことです。 縁には、それぞれの時と距離があります。 すべてを抱え込もうとするのではなく、今の自分にふさわしい縁を大切にする。 それもまた「智慧」なのです。
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「合わない人から離れる」ということも、 実は“自分を捨てる”ことにつながります。 ここでいう「自分」とは、 無理をしてでも関係を続けようとする自分、 嫌われることを恐れて離れられない自分です。 たとえばこんな場面です。 一緒にいると、なぜか気を遣いすぎてしまい、 会った後にどっと疲れてしまう相手がいる。 本当は少し距離を取りたいと思っているのに、 「関係を切ってはいけない」「我慢するのが大人だ」と考えて、 無理に関わり続けてしまう。 その結果、心は少しずつすり減っていく。 一方で、思い切って距離を置いたとき。 そこには迷いや罪悪感もありますが、 無理をして関わり続ける自分を手放しています。 合わない人から離れるとは、 相手を否定することではなく、 “無理をしている自分”を捨てることです。 縁には、それぞれの時と距離があります。 すべてを抱え込もうとするのではなく、 今の自分にふさわしい縁を大切にする。 それもまた、心を軽くする智慧です。 そして不思議なことに、 自分を大切にした関係だけが、静かに残っていくものです。
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ある人が職場での人間関係に、ほんの少しの違和感を覚えていたとします。 「なんとなく話しづらい」「少し無理して合わせている」 そんな小さな感覚です。 しかしその人は、 「気のせいだろう」「我慢すべきだ」と、その違和感を無視し続けました。 するとやがて、その小さな違和感は積み重なり、 大きなストレスとなって心を重くしていきました。 もし最初の段階で、 「自分は少し無理をしている」と気づき、 距離の取り方や関わり方を見直していたなら、 心はずっと軽く保たれていたでしょう。 小さな違和感を無視するということは、 本来の自分の感覚を押し殺すことになります。 逆に、その違和感を大切にすることは、 無理をしている自分、背負いすぎている自分を手放すことにつながります。 手放すとは、何かを捨てることではなく、 「自分に合わないものを抱え続けない」ということ。 その積み重ねが、人生を軽やかにしていくコツだと思うのです。
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「普通でいなければならない」という思い込みも、 手放すべきものの一つです。 ここでいう「普通」とは、 本来の自分ではなく、 周りに合わせるために作られた基準です。 たとえばこんな場面です。 周囲がみんな同じような進路を選ぶ中で、 本当は自分は別の道に進みたいと思っている。 けれど、「普通はこうするものだ」と考えて、 心に引っかかりを感じながらも周りに合わせてしまう。 その結果、自分の中に 「本当は違うのに」という小さな違和感が残り続ける。 一方で、「自分はこの道を選びたい」と決めたとき。 そこには不安もありますが、 「普通であろうとする自分」を手放しています。 「普通」であることに縛られないとは、 勝手に振る舞うことではなく、 “他人の基準で作られた自分”を捨てることです。 そのとき、自分の歩む道が、 初めて自分自身のものになります。 そして心は、静かに軽くなっていくものだと思うのです。
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人はつい、「形あるもの」を手に入れることで安心しようとします。 新しい服、最新のスマホ、高価な持ち物。 しかし、それらは手に入れた瞬間が喜びのピークで、やがて当たり前になり、また次を求めてしまいます。 ここに、心が重くなる原因があります。 たとえば、こんな二人がいます。 Aさんは、ボーナスで高級な時計を買いました。 最初は嬉しくて毎日眺めていましたが、しばらくすると慣れてしまい、今ではほとんど意識することもありません。 一方、Bさんは同じお金で、友人と旅行に出かけました。 美しい景色を見て、たくさん笑い、忘れられない時間を過ごしました。 その体験は、何年経っても心の中で輝き続けます。 モノは増えるほど、管理や比較、失う不安が増えていきます。 しかし経験は、持ち運ぶ必要もなく、失うこともなく、自分の内面を豊かにしていきます。 つまり、 「モノを選ぶ」ということは、知らず知らずのうちに“重さ”を抱えることでもあり、 「経験を選ぶ」ということは、“余計なものを手放していく”ことでもあるのです。 人生を軽くするとは、何も持たないことではありません。 本当に大切なものだけを残すことです。 そしてその一つが、「心に残る経験」なのだと私は思います。
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人生を軽くするためには、何かを足すのではなく、 まず余計なものを手放すことから始まるといいます。 「自分を大切にする」ということも、実はその一つです。 一見すると、自分を大切にすることは“何かを守ること”のように思えます。 けれど本当は、「無理をしている自分」を手放すことでもあります。 たとえばこんな場面です。 忙しい日々の中で、本当は少し休みたいのに、 「まだ頑張らなければ」「これくらい我慢しないと」と、自分を追い立ててしまう。 その結果、心も体も疲れきってしまう。 ここで「きょうは少し休もう」と決めること。 それは怠けではなく、“無理をし続ける自分”を手放すということです。 自分を大切にするとは、 何かを付け加えることではなく、本来の自分を苦しめている力みや思い込みを外していくこと。 「こうしなければならない」 「もっと頑張らなければならない」 そうした重さを手放したとき、 自然と心は軽くなります。 そして気づきます。 自分を大切にするとは、特別なことではなく、 “本来の自分に戻ること”なのだと。
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私たちはつい、「足りないものを埋めよう」としますが、 実は苦しみの多くは、すでに抱えすぎていることから生まれています。 だからこそ仏教では、智慧とは 「何かを付け加えることではなく、余計なものを捨てるはたらき」 と見ることができます。 では、何を捨てるのか。 たとえば… 人と比べてしまう心。 「あの人の方が上だ」と思うたびに、自分を見失ってしまいます。 無理な誘いを断れない自分。 嫌われたくない一心で、本心を押し殺してしまう。 「普通でなければならない」という思い込み。 本当は違う道を望んでいるのに、周りに合わせてしまう。 そして、合わない人との関係。 無理をして関わり続けることで、心がすり減っていく。 これらはすべて、 “本来の自分”ではなく、 後から身につけた「思い込みの自分」です。 それを一つひとつ手放していく。 これも智慧のはたらきです。
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「無理な誘いは断る」ということも、 実は“自分を捨てる”ことにつながります。 ここでいう「自分」とは、 本来の自分ではなく、 「よく思われたい」「断れない」という思い込みで作られた自分です。 たとえばこんな場面です。 本当は気が進まない集まりに誘われたとき、 「断ったら嫌われるかもしれない」と考え、無理に参加してしまう。 その場では笑顔でいても、心の中では疲れ、 終わったあとにどっと重さが残る。 これは、“本当の自分”ではなく、 「嫌われたくない自分」を優先している状態です。 一方で、「今回は遠慮します」と丁寧に断るとき。 そこには少し勇気がいりますが、 無理をして合わせる自分を手放しています。 無理な誘いを断るとは、 相手を切り捨てることではなく、 “作られた自分”を捨てることなのです。 そのとき初めて、 本来の自分に正直な関係が生まれます。 そして心は、確かに軽くなっていきます。
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人はつい、他人と自分を比べてしまいます。 「あの人の方が上手い」「自分はまだ足りない」と。 けれど、ここに一つの例があります。 同じ日に種を植えた二つの花。 一つは早く芽を出し、もう一つはゆっくり育っています。 遅い方の花が、「あの花はもう咲きそうなのに、自分はまだだ」と思い悩んだとしたらどうでしょうか。 その瞬間、本来の自分の成長を見失ってしまいます。 花にはそれぞれの咲く時があり、比べる意味はありません。 人も同じです。 比べるということは、「他人の物差しで自分を測る」ということ。 それは本来の自分を手放し、別の誰かになろうとすることでもあります。 だからこそ、「人と比べない」とは、 他人を捨てるのではなく、“他人に作られた自分像”を手放すことなのです。 すると、不思議と心は軽くなります。 自分は自分のままでよい、と気づけるからです。
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人はつい 「ちゃんとやらなければ」「完璧でなければ」と思いがちです。 でも、その“完璧”は、本当に必要でしょうか。 たとえば… ある人が、毎日きちんと掃除をしようと決めました。 しかし、「隅々まで完璧にやらないと意味がない」と思うあまり、時間も気力も足りず、結局まったく手をつけられなくなってしまいました。 一方で、 別の人はこう考えます。 「今日は机の上だけでいい」 するとどうでしょう。 机の上が整うと、少し気持ちが軽くなり、翌日は床にも手が伸びます。 結果として、後者の方が、自然と全体が整っていく場合があります。 完璧を求める心は、一見すると向上心のようでいて、実は自分を縛る重荷になることがあります。 すべてをやろうとするから、動けなくなる。 少しでいいと許すから、動き出せる。 これは修行にも似ています。 最初から悟りを完成させようとするのではなく、 「今できる一歩」に心を置く。 その積み重ねが、結果として大きな変化を生みます。 完璧を手放すとは、怠けることではありません。 「今の自分にできる最善でよい」と認めること。 それが、心を軽くし、歩みを止めないための智慧です。 無理をせず、自分のできる範囲で取り組む。 これも立派な智慧なのです。
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誰かにどう思われるか気にして、本当は疲れているのに無理して笑ったり、断れずに予定を詰め込んだりすることはありませんか? その心の奥には、 「よく思われたい」という執着があります。 仏教では、この執着こそが 自分自身を苦しめる原因だと説きます。 さらに言えば、 「よく見られたい私」という“我”に 縛られている状態です。 でも本来、その「私」もまた、 固定されたものではありません。 少し勇気を出して 「今日は休みます」 「それはできません」と言えたとき、 “他人の中の自分”ではなく、 “本来の自分”に戻っていきます。 人の目に生きる人生から、 心に正直な人生へ。 その一歩だけで、 世界はずいぶん軽くなるものです。
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智慧とは、 単に物知りであることではありません。 本当に大切なものを見極め、 「これだ」と決める力でもあります。 たとえば、 「あれもこれも欲しい」 ではなく 「一つを選び、他を手放す」 この「選ぶ力」こそが智慧です。 決めるということは、同時に「捨てる」ということでもあるのです。それは簡単なことではありません。 だからこそ、智慧とは厳しさを伴うものでもあります。 そして仏は、このような智慧を無数にそなえていると説かれます。 ただ知識が多いのではなく、 状況に応じて正しく判断し、行動できる力です。 それは特別な人だけのものではなく、もともとすべての人の中にあるものです。 人は迷うからこそ、気づくことができるのです。 もともと仏の力を持っているから、成長できるのです。 本当の智慧とは、「選び、決める力」なのですね。
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智慧とは、新しく手に入れるものではありません。 覆われているものが、あらわれることです。 たとえば、 誰かに優しくされたとき 自然と「ありがたい」と思う心。 誰かを傷つけたとき どこかで痛む、自分の心。 それは全部、 すでにあなたの中にある「智慧」のはたらきです。 だから智慧とは、 何かを“足す”ことではありません。 むしろ、余計なものを“手放す”ことなのです。 不安 見栄 他人との比較 そういうものが静まったとき、 もともとあった智慧が、そのまま現れるのです。
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「迷っているからこそ、気づくことができる」 仏教は、まずこの考え方から始まります。 たとえば、「悪いことをしてはいけない」と言われるのは、間違ったことをしてしまうからです。 だからこそ、「しない」という善が生まれます。 同じように、「悟り」という言葉も、迷いがあるからこそ生まれます。 最初からすべて分かっているなら、「悟り」という言葉自体が必要ないはずです。 つまり 人は不完全だからこそ、成長できるということです。 仏教は、立派な人のための教えではありません。 むしろ、悩み、迷い、苦しんでいる人のために説かれたものです。 沈んでいきそうな人に対して、 「どうにかして救いたい」と願う優しさ。 それが仏教の出発点です。
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『即身成仏義』の中で示されるように、 私たちの心のはたらきは、 数えきれないほど無限に広がっています。 そして、その一つひとつが 本来、智慧のはたらきそのものです。 ここで少しだけ、イメージしてみてください。 心はバラバラに動いているように見えて、実はひとつの大きなネットワークのように繋がっている。 その全体が、すでに完成されたはたらきとして動いている。 そう考えると 「自分は未完成だ」と思っていた見方が、少し変わってきませんか。 だから、即身成仏とは 遠くのゴールにたどり着くことではなく、すでに完成している自分の本質に目覚めることなのです。 そして、とても大切な一点。 その「気づき」は、 日常の一瞬一瞬の中で起こります。 特別な場所や時間だけではありません。 いま、この瞬間の心の動き。 それを深く観ていくこと。 そこにすでに 仏の世界は開かれているのです。
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