ひで|対話屋さん

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@hide_dialog

95年生まれ千葉県出身。大学卒業後、人材業界の会社に勤めた後、2020年に独立しました。2022年から「対話屋さん」という肩書きで活動している個人事業主です!サブアカウントもやってます→@hide_taiwa

公式サイト Beigetreten Eylül 2021
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自己否定は“心の冤罪”から始まっているケースがかなり多いです。たとえば、親の理想を子どもに押しつけたり頭ごなしに否定することによって、子どもは「自分が悪いんだ」という錯覚を起こします。要するに、子どもは一切悪いことをしていないのにも関わらず、強烈な自己否定を植え付けられてしまう=冤罪というわけです。 なのでここで大事になってくるのは、「自分のなかにある自己否定の気持ちは、親をはじめ周りの大人たちから理不尽に押し付けられた“心の冤罪”によってスタートしたものである」という認識に書き換えること。 そしてこの書き換えをさらに進めて「自己否定をしてしまうのは、決して自分が弱いからとかダメな人間だから、というわけではないんだな」という理解にまで辿りつくことなのです。 自己否定に終止符を打つための第一歩はここから始まっていきます。
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今日、泉谷先生のYouTube撮影をしてきました。そこで話した内容は、僕にとって大きな転換点となる、本当に大切な回になりました。自分自身への捉え方に大きなヒビが入り、これまで見えなかった世界へと大きく一歩踏み出したような感覚があります。 撮影が終わった直後、「僕の中で大きくステージが変わった感じがする」という言葉が自然とあふれるくらい、本当に、大きく転換したように思います。対話の力、言葉の力、内省の力、改めて深く強く実感しました。 (ちなみに今日撮影分の公開は来月ごろになるかなと!)
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「自己否定」という悩みを解決する方法は、決して「自己肯定」することではありません。 ここで言う「自己否定」というのは、自分自身に対して責め立てるような言葉を浴びせることや、自分から自由を奪い、行動を制限していくかのような考えを自分に向けていくことを指します。 かつて僕もこのようなことで悩んでいる状態が長く続いていました。 その当時の解決方法というのは、 「もっと自己肯定感を上げよう」 「そのためにもっと勉強してスキルを身につけよう」 「たくさん経験を積んで価値のある人間になろう」 「お金をいっぱい稼いで自由に行動できるようにしよう」 といったように、それはまるで「ダメな自分を良くするために、たくさんの装飾品を身につけていく」といったような発想でした。 しかし、どれだけ装飾品を身につけようと、根本にある「自己否定」が消え去っているわけではないので、これでは終わりなき戦いに身を投じることになってしまいます。 このことは、運動会で行われる「綱引き」に例えてみるとイメージしやすくなると思います。 左側に「自己否定チーム」、右側に「自己肯定チーム」がいると仮定して、その両者が一生懸命に引っ張りあいます。 「自己否定チーム」が優勢の時、「自己肯定チーム」は負けるわけにはいかないので、その倍以上の力で引っ張るため、とにかくチームの補強に努めます。それが上に書いたような「装飾品を身につけるような発想」ということです。 もし仮にその補強が上手くいって、「自己肯定チーム」が優勢になった時、ある種の「安堵感」に包まれるかもしれません。 「よし、ようやく自己肯定感が高まってきた!」といったように。 ただ、先ほども書いたように、それは決して「自己否定チーム」が消滅したわけではないのです。 一時的に「自己肯定チーム」が優勢になったとしても、その反対側に「自己否定チーム」が存在する限り、常に負けないように引っ張り続けなければいけません。 ともすれば「いつの日か自己否定チームの力に負けてしまうかもしれない…」という無意識の不安を、心の奥底に残し続けることになってしまうのです。 改めてここで強調したいのは、「自己否定」という悩みを解決する方法は、決して「自己肯定」をすることではないということです。 なので僕は、この状態を終わらせにいくこと、つまり「自己否定」が持っている“負の引力”をその本人から切り離すことを目指しているのです。 「自己否定チーム」を根絶した時、綱引きをする必要がなくなり、「ダメな自分に対して、もっと素晴らしい装飾品を身につけなきゃ…」という発想が知らぬ間に消えていくのです。 その状態になったときに初めて「自由」になり、その人の心のなかに「愛」や「信念」、さらには「好奇心」や「主体性」といった、人間にとって非常に大切な要素が取り戻されていきます。 そして、本当の意味で「自分の人生」と呼べるものがスタートしていくのです。 もちろんそこに向かうまでの道のりはたくさんの困難があり、一筋縄ではいかないと思います。 しかし、ただひとつ確かなことは「自己否定を終わらせる」「自己否定の引力を切る」という道のりに入ることができれば、いつの日か、必ず終わる時がやってくるということです。
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対話屋さん(サブ)
公式サイトの「こんな方のために」の文章をすべて消して、ゼロから書き直しました。対話プログラムに興味のある方、ぜひご一読ください! taiwayasan.com/for_you/
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3年前にこんな投稿をした。簡単にまとめれば「無償の愛を持っているのは母ではなく子どものほうだ」ということを言っていたのだけれど、これはもしかしたら違うのかもしれない。そんなふうに最近思ってきた。 なぜなら、真の意味で「無償の愛」というのは、親の理不尽な言動に対してキッパリと「NO」を突きつけることだからです。 母親から理不尽な言動をされても、それでも「母親を好きでいようとする」というのは、ある意味では自分を犠牲にしているので、それはつまり自分に対して愛を向けていないということになる。 「無償の愛」というのは他者にだけ向けるものではなく、自分に対しても同じように向かっていく性質を持つのです。
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無償の愛を持っているのは「母」ではなく「子ども」であることが多いんですよね。というのも、母がどれだけヒステリックに怒っても、母がどれだけ理不尽な言動をとっても、母がどれだけ不機嫌でいようとも、それでも子どもは母のことを好きでいようとする「純粋な心」を持っているからです。

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この放送のなかで詳しく話しています!(ちなみに今回は3名の募集ですがすでに2名お申し込みいただいているので、残り1枠となります) stand.fm/episodes/69c2a…
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個人事業主の方向けに「自分のしごとをつくるための伴走サポートプログラム」を始めます! ※これから個人事業をはじめる方も対象です! 「自分のしごと」とは、端的にいえば「自分だからこそできる活動」のことです。 たとえば僕は「対話屋さん」という屋号をかかげ、個人事業主として活動していますが、もともとこの世の中に「対話屋さん」という仕事が存在していたわけではありません。 しかし「僕だからこそできる活動」という前提に立った時、コーチングでもカウンセリングでもない、新たな分野として「深く考える対話」を僕なら提供できると、そのように確信して今日まで続けてきています。 そうは言いつつ… 世の中的にはコーチングやカウンセリングという言葉のほうが馴染みはありますし、僕もいっときは「自己探究コーチというふうに名乗ったほうが多くの人に認識してもらえるかな?」と悩んだこともありました。 ただ、今日まで「対話屋さん」という屋号で活動を続けてきてわかったことは、そこに自分の信念と好奇心と愛があれば、その活動を必要としている方と必ず出会い、そしてその方のもとに届けることができるということです。 むしろ「自己探究コーチと名乗るのはなんか違うんだよなぁ…」という当時の僕の違和感を抑圧し、 多くの人に知ってもらうため、お金を稼ぐため、そういった理由で「自己探究コーチ」と名乗っていた場合、まちがいなく今のクライアントさんには出会えていなかったと思います。 さらに言えば、ミシルさんと一緒にYouTubeや対話会や講演会をやったり、精神科医・泉谷先生のYouTubeやセミナーの運営に入ったり、武蔵野大学の授業の運営サポートに入ったり、 他にもさまざまな出会いや活動にも繋がらなかったかもしれません。 「自分だからこそできる活動」を信じて続けていくことで、自分の想像さえも超えるような未来へと展開していくのだろうと思います。 もちろんですが、これまでの日々を振り返ると「全然上手くいかねぇなぁ」と悩んだり、葛藤したり…なんてことは山ほど経験してきました。 たとえばラジオ配信(スタエフ)をはじめた最初のうちは、フォロワー0人からのスタートなのでもちろん再生数はゼロです。よくても3〜5再生ほど。 ライブ配信を立ち上げてもリスナーさんは0人。そんななか僕ひとりで喋っている時もありました。 「対話会やります!」と募集をかけても、ひとりも集まらない。「対話プログラム募集します!」と告知しても、ひとりも集まらない。 そういう時期ももちろんあります。 それでもやっぱり、僕が信じているもの、大切だと思うもの、この世界には必要なんだと確信していること、そういうものをコツコツと発信し続けていった先に、なんとか今日の活動に繋がっていったということです。 そしてなにより、「自分だからこそできる活動=自分のしごと」をクライアントさんにお届けできたとき、そこにはとても大きな喜びと、愛の循環があると心から実感しています。 そんなわけで! 今回の「伴走サポートプログラム」では、「自分だからこそできる活動を作ってみたい」「すでにやってきた活動をもっと磨いてみたい」と願っている方にこそ、受けていただきたいと思っています。 もしご興味ある方はリプ欄に貼ってあるリンクから、今回のサービスについて説明した収録放送を聴いてみてください↓↓
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YouTubeのコメント欄に質問が届きました。 ⎯⎯ひでさんのブチギレ論が気になります。 邪悪なものに対しての反撃として使うとおっしゃっていましたが、ひでさんの思う「怒り」の適切な使い方や、怒りの真の目的を見失わないようにするためのコツなどがあればぜひお聞きしたいです。 …ということで、以下に回答文を載せたいと思います。 まず「怒りの真の目的を見失わないようにするためのコツ」を考えるうえで非常に大切な視点が、そもそもなぜ「怒り」という感情が人間(さらに言えば他の動物たち)には備わっているのかという点。 そしてもうひとつは「怒り」には質の良いものと悪いものがあるという点です(ここでは分かりやすく良いor悪いで大別してみます)。 ひとつ目に関していえば、すごく単純化してまとめてみると「怒りは他者からの不当な侵害から自分を守るために存在する」と言えます。 動物の世界で考えてみればより分かりやすくなると思いますが、たとえば自分たちの縄張りを侵害してくる外敵や、自分の子どもを食べようとしてくる肉食動物たちに対して「怒り」を向けてみたり、「威嚇」をしてみたり、そのようにして立ち向かうシーンがあるかと思います。 なぜそれをするかと言えば、「命を守るため」であり、もっとシンプルに言えば「今、この瞬間を生きるため(死なないため)」であるわけです。 人間の世界においてもこれと同じことが言えます。 つまり、自分の主体性を侵害してくる言葉や、暴力的な行動を自分に向けられた時に「怒り」が発動していくことが命として自然なことなのです。 もしそこで「怒り」が出てこなければ、下手すると相手から向けられた不当な侵害を受け入れてしまうことになりかねません。 たとえば、仕事でミスを重ねてしまった時、職場の上司から「お前はミスばっかりで本当に使えないな」という言葉を言われたとします。 たしかに「ミスをたくさんしている」ということは事実。だけれども、人間に対して「使えない」という言葉、まるで物を扱うかのように使う言葉、それを使うこと自体が「他者の存在を不当に侵害している言動」なわけです。 そういう時には「怒り」を発動していいシーンであると思います。 もしその上司に「人間として接する態度」が備わっていれば決してそんな「物を扱うような言葉」は出てこないのです(補足すれば「物」に対しても愛は向いていきます)。 むしろ「どうしてミスが重なっているんだろう?」「もしかしたら何か気持ちが乗らないことがあるのかな?」という想像のもと、その部下に対して対話的に接していくはずなんです。 そんなわけでもう一度まとめると、「怒り」という感情は、他者からの不当な侵害から自分(や大切な人)を守るため、今この瞬間に心から湧き上がってくるもの。つまり、「愛をベースにした感情」と言えるのです。 これがふたつ目の「質」にも繋がってくるのですが、上に書いたような「愛をベースにした怒り」であるならば、それは「今この瞬間」に対して向かっていくものであり、見返りを求める感情ではないので、へんに後を引いたりすることはなく、すごくさっぱりと爽やかな感じ。雷どかーん!みたいな。 つまりドロドロしてなくって、その怒りから漂ってくる香りも味も質が良いんです(愛がベースになっているので)。 一方で、世の中では、質の悪い怒りが蔓延していることが多いです。質の悪い怒りとは何か。それぞれ整理するとこんな感じです↓ ・質の良い怒り:他者からの不当な侵害に対する反撃(愛がベース) ・質の悪い怒り:他者を不当に扱おうとする攻撃(欲望がベース) 特に両親が不仲(お互いに質の悪い怒りを向け合っている)で育ったケースだと、「人に対して怒りを向けるのはよくない」「自分の怒り感情はコントロールすべきだ」という認識が植え付けられていくことも少なくないです。 そのような認識になると、その子どもはどんどん自分のなかに怒り感情(たとえそれが質の良い怒りであったとしても)を溜め込むことになり、さらにはそれによって「心が動かなくなる」ということさえ起きてしまいます。 ちなみに「質の悪い怒り」というのは、家庭の中だけではなく、学校や会社などの多くの組織で見られるものです。 そのため、「質の良い怒り」までもが「ダメなもの」というふうにされてしまうのだと思います。 なので、質の良い怒りと、質の悪い怒り、それぞれをもっとシビアに、そしてある種のドライさをもって、真剣に見極めていく姿勢が非常に重要なのです。 目の前に繰り広げられる怒りが、果たして愛がベースなのか、それとも欲望が混入しているのか…といったように。 そんなわけで、かなりの長文になりましたが最後まで読んでくださりありがとうございました!
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ずっと前から「どうしては人は笑うんだろう?」という疑問がありました。例えばお笑い芸人の漫才をみて笑うこともあれば、めちゃくちゃ怖い上司が思わずオナラをプッとしたときにくすくす笑うこともある。 笑う状況って世の中にたくさんあるけど、なぜ人は笑うのか?そもそも笑うってなんだろう?みたいなことを前から不思議に思っていたんです。 そんなわけで最近ベルクソン(フランスの哲学者)の『笑い』という本を開いてみたのですが、とても興味深い一節を発見。ちょっと引用してみます。 ⎯⎯可笑しさは結局、効果を生み出すために、心の瞬間的麻痺を要請する。 これは何を言ってるのかといえば「心の共感があると、笑いって生まれないよね」ということです。 たとえばさっき例に挙げた思わずオナラをした上司の件でいえば、実はちょっと前に腸の病気になり、その影響でオナラが出てしまうという背景を知っているならば、そしてそこに心の共感があれば、突然オナラの音が聞こえてきても笑いは込み上げてこないわけです。 ちなみにベルクソンはこんな例を挙げています。 ⎯⎯人々がダンスを踊っているサロンにいながら、音楽を聴くわれわれの耳に栓をするだけで、踊り手たちはすぐさま滑稽に映る。 たしかに想像してみるとおもしろいですね。さっきまで音楽に合わせてカッコいいダンスを踊っていた人たちが、急に無音の世界で激しく踊っているのだから、なんだか滑稽に見えてくるのもわかる気がします。 これもなぜ滑稽に映るのかといえば、音楽とは感情そのものであり、それを完全に切り離すことによって、観客はそこに共感を見出すことができなくなってしまうから、ということになるわけです。 改めてまとめると、笑いが生まれるときには「心の瞬間的麻痺(共感のなさ)」が必要であるということ。もちろんそれが全てではないですが、そういう視点で世界を眺めてみるとなんだかまた新しい発見がありそうです。
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子どもが何かを「できた」から「信じる」のではなくて、親が子どもを「信じる」から何かが「できる」という順序なんですよね。親子関係だけじゃなくて、恋愛でも友達でも会社でも、ぜんぶ同じ。「信じる」がまず先にある。
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「親に愛する能力が全くなかった」ということをハッキリと認めること。これもひとつの愛の形。 つまり親に対して「わたしはもう“あなたの子ども”ではない。戸籍上は子どもだけど、わたしは“わたし”として生きている。あなたも“あなた”として生きている」という態度を表明するということです。 もしこれが愛ではなく欲望なのであれば、 「ねぇお母さん、あなたには愛する能力が全くなかった。これまでもぜんぜん愛してくれなかったよね?だからこれからはもっとわたしを愛してほしい」ということになる。気持ちはわかるけどこれは愛ではない。 あるいは「わたしはあなたの子どもなのだから、愛されて当然なんだ」という態度もまた愛ではない。 ここを認めるプロセスにはかなりエネルギーを要するが、そこを超えたときに、世界は一度フラットになる。そのとき初めて真の意味での安心と愛で満たされる。
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100万人から得られた膨大なデータよりも、たったひとりの人間の、その人生における強烈な経験に僕たちの心は感動を起こすように、この世界でもっとも信じることのできる本当のことは、自分の内に見出していくものなのだろう。
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この世界にもっと純粋で愛に満ちている「怒り」が素直に表現されたらいいなと思っていたり赤ちゃんのような「好奇心」を大人たちこそどんどん発露できたらいいなと思っていたり
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何チャン2歳の誕生日YouTubeライブ、同接最大166名というたくさんの方に来ていただけて、とても楽しかったです🙌 3年目もさらなる深い対話の時間をお届けしていきたいと思います。本当にありがとうございました!
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明日3/1(日)20:00〜 何チャン誕生日YouTubeライブをやります! ぜひコメント参加お待ちしてます(^^) @misiru-hide" target="_blank" rel="nofollow noopener">youtube.com/@misiru-hide
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YouTube『ミシルとひでの何チャンネル』をスタートして、明日で丸2年になります。 これまでに119本の動画をコツコツ投稿してきまして、おかげさまでたくさんの方に楽しんでいただけるようになりました。本当にありがとうございます! 撮影は毎回即興、カット編集も無し。 YouTubeのセオリーでいえば事前に台本や構成をつくったり、沈黙しながら考えるシーンはカットして間を詰めたりすると思うのですが、それでは本当の意味での「対話」とは呼べなくなってしまいます。 僕たちがやっていることは「対話」であり、そしてそれは「不完全」であることが大切です。 僕自身もテロップのチェックをしているとき、自分が喋っているシーンを見ながら「この表現はなんか違うな」とか「もっと別の言葉で表現したいな」とかそういうことを感じることもあります。 つまり、毎回の撮影はあくまで「暫定的」な考えをその場で言葉にしているので、それが日々アップデートされていってるわけです。 だからこそ、このチャンネルを見てもらったときに、一緒に考えてもらえたり、内省する時間になっているのではないかなと思います。 以前にミシルさんと話しているとき、 「考えすぎが、ちょうどいい。」 という言葉が何チャンのコンセプトにいいかもねみたいな話をしたことがあります。 「考えすぎ」という言葉は否定的な意味合いで使われることが多いですが、僕たちからしたらむしろちょうどいい。適温。気持ちのいい温度のお風呂に入っている感じ。 そんなわけでこれからも、たくさん考えて、たくさん言葉にして、あーでもないこーでもないという対話の時間をYouTube上で表現していけたらなと思っています! 何チャン3年目もどうぞよろしくお願いします🤝
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YouTubeのコメント欄にとある質問が届きました。 「まったく期待しない生き方もできるとは思いますが、やっぱりどうしても、私は期待をしない人生なんて寂しすぎると思ってしまいます 期待によって落とされることもあるけれど、幸せにつながるものだと思っています お二人はまったく期待をしない人生、素敵だと思いますか?」 そもそもこのテーマについて考えるには、「期待」という言葉の定義がとっても大切になってくるかと思います。 というのも、僕にとっての「期待」という言葉、質問者さんにとっての「期待」という言葉、それぞれ違うイメージや感覚がそこには入ってくるからです。 さらには、今回のご質問の「まったく期待をしない」という言葉の意味も、いろいろな解釈ができますね。 ただ、文章でそれらすべてを取り扱うのはなかなか難しいので、これから書く回答の文章は、そのような細かな定義を一旦わきに置いておくという前提で書き進めていきたいと思います🤝 ということで「まったく期待をしない人生、素敵だと思いますか?」についてですが、「人生」という言葉に「まったく期待をしない」という言葉をくっつけると、それはたしかに寂しげな感じがしたり、なんだか爽やかさを感じなかったり、さらには空虚さのようなものが漂ってきます。 ただ、僕は「まったく期待をしない人生」というものの正体は上記のようなイメージが呼び起こされるものではなく、むしろ「たくさんの愛が巡り合う人生」というものだと考えています。 今回の動画のなかでも話しましたが、僕の人生の“紀元前”はたしかに「期待に応える」「人に期待する」「見返りを求める」といった世界観がベースになっていましたが、“紀元後”に入るとそれらの世界観は一掃されていきました。 そして“紀元後”からは、「期待」ではなく「信じる=愛」という世界観がベースになり、さらに進んでいくと「好奇心」「主体性」「自発性」といった類のものがますます僕の内側から湧き上がってくるようになっていったのです。 僕のなかにはこのような見方(世界観の変遷)があります。なので「まったく期待をしない人生、素敵だと思いますか?」というご質問に戻ると、そもそも僕は「人生=生まれてから亡くなるまで」のなかで、「まったく期待をしない」ということは不可能であると考えています。 むしろ人生の前半の時期においては、人に期待したりされたり、時に見返りを求めたり求められたり、人を傷つけたり傷つけられたり、それらの世界観に疲弊したり… そのような経験を通して、「期待」をベースにした関係性には限界があることを知り、そしてそこから脱して「信じる=愛」をベースにした関係性への道へと入っていくことが重要なのだと思います。 (また、とても大事なところなので補足すると、「その人生は素敵かどうか?」というふうに見ていく視点は僕の中にはなく、むしろ一人ひとり全く違う人生があるということをそのまま見ているという感覚です!) なかなか全てを書ききれないですが、ひとまず僕の考えの一部の共有でした!最後まで読んでくださりありがとうございました!
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