
多動傾向のある人(ADHD)は、リマインダー設定に命を預けるくらいでちょうどいい。私などは大小合わせて毎日100件以上リマインダーが飛んでくる。 ほとんどリマインダーに操られて生きている感覚だが、そのおかげで無思考で動け、抜け漏れもなくなり、成果も出る。
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多動傾向のある人(ADHD)は、リマインダー設定に命を預けるくらいでちょうどいい。私などは大小合わせて毎日100件以上リマインダーが飛んでくる。 ほとんどリマインダーに操られて生きている感覚だが、そのおかげで無思考で動け、抜け漏れもなくなり、成果も出る。

経営者にとってのワークライフバランスとは、ワークもライフも関係なく常時ごちゃ混ぜの状態だわ。経営者であるなら、四六時中仕事の事を考えているのは当然のこと。だってそれ以上に楽しい時間、ないからな。

なぜ自力で超富裕層となった人はどれだけ贅沢を尽くしても、最終的に仕事に戻ってくるのか? 高級ホテルに泊まっても、高級レストランで食事をしても、最初の感動は2〜3回で薄れ、日常化すれば感動はほぼ無くなる これは「ヘドニック・アダプテーション(快楽順応)」と呼ばれる脳の仕組みで、同じ刺激の繰り返しには驚くほど早く慣れるようにできている しかし面白いことに、仕事に対する熱量は何年経っても薄れないという人が多い 違いは「消費」と「創造」。高級体験は本質的に受け身であり、脳が学習して感動が減衰する 一方で仕事は毎回違う問題が現れ、自分の工夫が結果に反映されるため、脳にとっては常に新しい刺激となる マスクもザッカーバーグもベゾスも、お金を使い切れないほど持っているのに働き続けている理由がここにある 本当に飽きない幸福は「何かを作り出す側」にいることなのかもしれません

過去の選択は未来への投資。だからどんな判断をしても、それは全て将来への自分の一部になっていくのよ。失敗して悔やんでても仕方がない。失敗という貴重な経験をできたと感謝することよ。そして未来に向けて、正解に向かって突き進んでいけばいいんよ。

多動傾向の人(ADHD)には、頭に浮かぶ言葉の全てを書き出すことを強く勧めたい。 このタイプの人は、同時多発的に湧き出す思考に押し潰され、かえって動けなくなることが多い。だからこそ、まずは全部を外に出し、可視化する。 浮かんだタスクやアイデアはすぐにメモへ転記して忘れる。実際の行動が 必要なものは、その場で即座に手をつける。 この習慣を徹底できれば、思考の洪水は力に変わり、驚くほどの成果を生み出せるようになる。私はこれで生まれ変われたよ。

ADHDは「世間一般の目」を無視して「好きに没頭」するのが1番です。世間一般的には評価されないことでもADHDが得意な「没頭」を極める事で、その「好き」に共感し、対価を払う人が必ず現れますから。世間一般に溶け込むのではなく、世間一般と逸脱し、その上で認められる方がよっぽどラクです。

ガチでエヌビディアCEOの言う通り、成功したいなら無知なまま始めろ。準備が整う日なんて一生来ない。知識が増えるほどできない理由が増えて動けなくなる。AIで常識はすぐ塗り変わる。先に調べるより、自分で動いて痛い目を見た方が血肉になる。無知を恐れるな。経験して生きた情報を取りに行け。

義務感で人生を塗りつぶしている人ほど、「やりたいことをやって生きている人」を見て、腹を立てる。 「無責任だ」 「お気楽でいいね」 「好きなことばかりして」 そう言わずにはいられない。 なぜなら、自分がずっと押し殺してきたものを、相手が平然と生きているように見えるからだ。 だが、本当は逆である。 やりたいことをやって生きることは、べつに気楽でも、甘くもない。 むしろ、義務感で生きることより、ずっと残酷な側面がある。 義務感で生きる人には、外側に基準がある。 世間に認められること。 ちゃんとしていると思われること。 周囲に迷惑をかけないこと。 決められた役割を、それなりに果たすこと。 その基準を満たせば、とりあえずはそれでいいとされる。 苦しくても、「これで十分」と言い聞かせることができる。 合格点は、自分の外にあるからだ。 だが、やりたいことをやる人生には、それがない。 誰も合格を出してくれない。 誰も「そこまででいい」とは言ってくれない。 どれだけ褒められても、どれだけ評価されても、自分が納得していなければ、何ひとつ終わらない。 これが、その生き方の厳しさだ。 義務でやることは、途中で自分をごまかせる。 「求められた水準は満たした」 「ここまでやれば十分だ」 「仕方なかった」 そうやって、自分を守ることができる。 だが、やりたいことは、ごまかせない。 手を抜いたことも、逃げたことも、妥協したことも、いちばんよく知っているのは自分だからだ。 好きで選んだ道は、自由に見える。 けれどその実、逃げ道がない。 誰かにやらされたわけではない。 環境のせいにも、人のせいにもできない。 自分で望んだ以上、自分が納得するところまでやり切るしかない。 やりたいことをやって生きる人は、好き勝手に生きているのではない。 自分の願いに対して、責任を取っているのである。 義務感で生きる人の苦しさは、「やりたくないことを、やらなければならない」苦しさだ。 だが、やりたいことをやる人の苦しさは、「やりたいと願ってしまった以上、中途半端では済まされない」苦しさだ。 前者は、他人の基準に縛られる苦しさ。 後者は、自分の本心に追い詰められる苦しさ。 好きなことをして生きる人は、自由なのではない。 自分の本心から、もう逃げられなくなった人なのである。





