
小波
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小波
@ripplings
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日本のTwitterユーザーの皆さんに質問です。皆さんも、北斎の『神奈川沖浪裏』に、私たちアメリカ人と同じくらい夢中になっていますか? こちらでは、ありとあらゆるものにあの絵柄を使っているのですが、日本でも同じような感じなのでしょうか?

日本人は、 「信仰心」はあるけど、 「宗教心」がない。 神は何人でもいるだろう、と他人が拝む神を肯定しているけど、 唯一神以外を認めない、という教典を受け入れない。 日本人は、「神を型に填めてそれ以外を許さない信者と、信者が定めた神のあり方に従わされること」が窮屈なんだと思う。 人が定義した神のあり方(を記した教典)には大体矛盾があるが、それを指摘すると不機嫌になって暴力的について排他してくる器の小さい人間が仕切っている「宗教という作法」が気にくわない。 宗教は本来は「統治ツール」で、神という権威を笠に着て人を統べるためのツールとして発達した。ごく初期においてもそうで、戦争に負けなかった国ではたぶん今もそう。 日本は敗戦によって「政教分離」が行われた結果、宗教は統治ツールから公的には分離された。 今も宗教が統治にかかわることを忌避するし、自分の意志でなく宗教上の上位者による「神の意志の押し付け)を嫌う。 宗教(宗を強いる統治のやり方)は統治ツールから分離されたが、それを強いない信仰の部分は、「内心の自由」として否定されない。 正月飾り、鏡餅、初詣、どんど焼き、節分、彼岸、節句、七五三、願掛け、お百度、夏祭り、七夕、盆、罰当たりであることに怯え、誰も見ていないのに「お天道様には見られている」と自律自戒を自らに強いる。 信仰は残り、宗教の一部を成しているはずの行事は、統治ツールであったことからは解放されて、日常と境界が曖昧な習慣行事として続く。
















