
松尾さんは大変な伊達男で洒落た方であり、文体も非常に上品です。が、故に、として良いものかどうか、このインタビューは納得するとかしかねるとか以前に、大変に下品であると思います。 「日本の音楽」という広範で肥沃な文化総体を、平然とご勝手にフィクシングした上で、誠実な顔つきで踏み絵の踏み台を用意していますし、イニシャルトークにも似た、ダーティースキャンダリズムの技法(ほら、あの人のことよ。といった)が使われているからです。 また「長尺」です。とおっしゃいますが、私の数える限り、これは中小尺です。これは、Xという限定的な世界に向けた忖度もしくは自家中毒であり、この文字数が長尺となる文章のサイジングセンスが現状を用意している側面に関してもそこそこ鈍感であると思います。 ここに登場する「声を上げた者たち=心強く素晴らしい、正しき者たち」の音楽を、間違いなく全部クソだと思っている人、がいたとします。 その人たちは、機械的 / 自動的に「自分の好きな音楽家は全て反動的な腰抜け」だという事を決定論的に引き受けなければならないのでしょうか。 「反核原論」の中で、江藤淳と蓮實重彦は「核兵器に反対する。などということは当たり前で、いわば母親を大事にする。というような話で、わざわざ強弁することではない」としました。 私はハスミストでもエトリストでもありませんけれども、この言葉は、今、全く時代に適応していない、とは思いません。「戦争反対」の対語は「戦争賛成」であり、現在は、上下左右国籍関係なく、誰もが戦争反対のは、ほぼ自明ではないでしょうか? 私は昔日「DCPRG」という運動体で、戦争と音楽に関する私なりのアプローチをして参りましたが、まさに今昔の間はあり、やっと日本のサブカル好き90年代ノットデッドもシオニストやイスラエルという国家に対する解像度を上げ、世界的に帝政や王政の復古が、あたかも神の見えざる手に引かれるが如く、20世紀の反復のような動きを見せていることが場に供託された、治安維持法の制定100周年の今(因みに京都で最初に執行)、音楽と音楽家、音楽家の言葉と音楽そのもの、と、戦争、軍事、殺人、革命、という諸関係を、「あまりにも」「X民」「に刺さりやすく」行動し、まとめることは、ギリギリで下品を下回ることでは無いかと、ご本人との友情関係、音楽的なリスペクト関係を超えて、批判の形で認めさせて頂きました。 戦争には間違いない反復性があり、それが音楽の反復性と絶対的無関係だとは、私は思いません。これは「音楽家が政治に対してどれほどの実効力を持つか?」といった、リージョンに関する誤謬に基づいた、非議論ではなく、だからこそ更なる思考や対話が必要だと思います。 私は「え?戦争反対って、わざわざ声を上げないといけないの?戦争賛成なら、わざわざ声ぐらいはあげた方が良いと思うけどね」と思っています。 (菊地成孔) niewmedia.com/specials/2604k…




























