
雨宮薫@コントラ·ムンディ
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日本に住むイスラム教徒の兄弟姉妹たち、日本人であろうと外国人であろうと、彼らが本当に理屈で理解しにくい考え方に直面しているため、神が彼らを力づけてくださるよう祈ります。 どんなに困難な状況にあっても、信仰を堅く持ち続けなさい。そして、神があなたと共にいることを忘れないでください。

イランの最高指導者だったホメイニは『悪魔の詩』を書いたラシュディと出版関係者に死刑を宣告し、日本でも翻訳者の五十嵐一氏が殺害されました。五十嵐氏の事件は未解決ですが、ムスリムによるものと考えられています 表現の自由を認めない世界とはこれです。我々は表現の自由を守らなくてはならない

「世界から『日本は男性の性欲に甘い国』と言われている」 news-postseven.com/archives/20251… 渡邊渚さんが「日本で多発する性的搾取」について思うこと 買う側が刑罰を受ける法律にするべきだし、顔も名前も晒されて社会的に抹殺されてほしい。

日本の友人へ 最近、日本語は単なる「文字の言語」ではなく、一種の「情報圧縮システム」のように感じるようになりました。 最初は、ひらがな・カタカナ・漢字の混在は単なる「複雑さ」だと思っていました。 しかし今では、それぞれが特定の役割を持った設計構造のように見えます。 ひらがなは音を運ぶ流れる骨格のように感じられます。 カタカナは外来要素を取り込む翻訳ツールのように機能しているように思えます。 漢字は意味を一瞬で圧縮するデータパケットのように感じられます。 そして気づいたのは、日本語は単に「読む」ものではなく、「理解しながら展開(解凍)する」言語なのではないか、ということです。 そこでいくつか質問があります。 なぜ日本語はこのような層構造のシステムへと発展したのでしょうか? もし漢字だけ、あるいはひらがなだけに統一されていたら、日本語における「思考のスピード」は変わっていたと思いますか? また、学習者にとって本当に難しい部分はどこにあるのでしょうか? 発音でしょうか?漢字の暗記でしょうか?それとも文脈によって意味が変わるという感覚でしょうか? そしてもう一つ: 日本語学習者は、どの段階で「言葉を読む」ことから「雰囲気そのものを理解する」ようになるのでしょうか? ナイジェリアから見ていると、日本語は単なる言語というよりも、一種の思考プロトコルのように感じられます。 皆さんはどう思いますか?

マクドナルドは子ども向けメニューで味を覚えさせ、彼らが大人になっても来てくれるので世代を超えて売れています。逆に今「若者が来てくれない」と嘆いているのは高齢者・大人ばかり相手にした業界です。例えば子ども番組をやめたテレビ局、遊園地をやめた百貨店、そして渋谷がそうです。

例えば『薬屋のひとりごと』は中国っぽいけどまったく現実の中国史と関係ないことを作者も認めていますが、当の中国人も「全然中国ではないが面白い」と楽しんでいます。キングダムもそうです。漫画文化はそれでいいんです。

一連の流れが面白過ぎる。 うちの子達は家庭内絶対日本語なのだが喧嘩する時だけ仏語だった。 理由は「日本語で相手を悪く言う表現がない」。 日本では知的マウントで口論に勝つのが美しいやり方であると教えて来たが子供達は「あいつら(仏人)はそんな言い方では黙らない」と言っていた、この事か。



















