
finalvent
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finalvent
@finalvent
ペンネーム: finalvent(ファイナルヴェント)。1957年東京生まれ。学術研究者として、言語学・中世英語学(聖書英語)・日本伝統芸術を研究しています。インターネットでは、2003年からブロガーをしています。著書に『新しい「古典」を読む』全4巻、『考える生き方』など。finalvent読書会を運営しています。
Tokyo Beigetreten Eylül 2007
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【お知らせ】
『新しい「古典」を読む 4』finalvent著が、今日、2025年11月10日、ついに発売されました。
『新しい「古典」を読む 4』
amazon.co.jp/dp/B0FYGVYY4L
この巻は、著者自身が言うのもなんですが、圧巻という感じです。自分が書いたものとはいえ、10年も前に書いたので、かなり距離感もあり、離れた目で読むのですが、これは、けっこうとんでもない代物だなあ、と他人事のように思いました。
これで4巻シリーズは完結です。
悲願達成という感じがします。
率直なところ、これが実現される日が来るのとは思わなかったです。すでに原稿があるのだから、版組すればいいじゃないかと簡単に思ってた自分を殴ってあげたいです。編集に苦慮されたバンディット(BANDIT)さん、ありがとう。ここまでできる編集者はいないよ、すごいよ。
これを祝してということでもないのですが、池袋ジュンク堂で、文芸評論家の仲俣暁生さんとトークイベントをします。
honto.jp/store/news/det…
参加費2000円と映画なみのお値段ですが、たぶん、珍しい機会、そして、めずらしい話題になると思います。ぜひ、ご参加ください。
開催日時:2025年11月25日(火) 19:30~
開催場所:池袋ジュンク堂9F イベントスペース
来店トークイベント【19:30開演】
軽出版から考える 本を作ること・売ることの未来
仲俣 暁生(編集者・文芸評論家/大正大学表現学部教授)
finalvent(ライター・ブロガー)
坂田 散文(司会・編集者)
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これかあ。良書なんですけど、今の若い人に読めるんかなあ。講演ベースでもあって読みやすいんですが。
ちなみに『職業としての政治』のほうは、1919年の講演で、翌年ウェーバーは死んじゃったので本人の手は入ってないですね。
きむ うじゅん@sociophilisophe
大学進学者・大学生に一冊をすすめるならこれかな。付属校時代に講読の授業があったが、学問を修める意義について考える契機となった一冊です。
日本語

これは全くそうなんですよね。
なので私は日本人は第2外国語は イタリア語から学ぶべきだと思うんですよね。
斉藤 淳@junsaito0529
ローマ字は、かな文字を読むことが出来ない外国人が日本語の真似をするためのローカル・ルールですよね。 なのでローマ字から英語に入るのは、高速道路を逆走するような危険行為だと常々言い聞かせております。
日本語

さらに、ジル・ドゥルーズは「n個の性」という言い方をします。
これは一般には「性の多様性」、すなわちセックス(分けることを語源とする)を二分法的に捉えるのではなく、なめらかに連続するものとして理解する議論として読まれがちです。
いわば、差異や多様性の思想として、ジャック・デリダ的に理解されることが多いです。実際、「n」という記号的な言い方が、そうした読みを誘発しやすい面もあります。
しかしドゥルーズが言っているのは、単なる性の分類や多様性の問題ではないんですよ。
問題にされているのは、身体において現れる性のインテンシティ(強度)が、多様化せざるを得ないという点です。つまり、性をカテゴリーとして数えるのではなく、強度の変化や分布として捉えるべきだということです。
この点は、身体的な強度のある共感的理解から読まなければ把握しにくい部分です。したがって、単に差異や多様性の理論として処理すると、ドゥルーズの意図からずれてしまいます。
で、では、ここで身体性の議論に接続しようとして、モーリス・メルロー=ポンティなどを参照する読みもありますが、そうした文脈を安易に持ち込むと議論が混線しやすくなります。ドゥルーズにおける身体や強度の問題は、それ自体の枠組みで捉える必要がありますね。
まあ、これが正しい読み方だというわけでもないんですけど、この側面から見ると、なんというか不用意に難しくしなければ、けっこう単純だはあるてすよ。
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『千のプラトー』というのがありますね。ジル・ドゥルーズとフェリックス・ガタリによって著された書物であり、一般には「リゾーム」という概念によって理解されることが多いです。
すなわち、中心や階層をもたないネットワーク的構造として世界や思考を捉える立場です。
しかし、この理解は目立ちやすい特徴を捉えているに過ぎず、書物の核心を十分に示しているとは言いがたいと私は思っています。
むしろ本書の中心にあるのは、「強度(intensité)」がどのように現れ、持続し、別の状態へと移行するかという問題です。
ここでいう「プラトー」とは、強度がピークに向かって収束するのでも、消散してゼロに戻るのでもなく、ある水準で持続し続ける状態を指します。
そして「千のプラトー」とは、そのような持続する強度の場が無数に並存し、相互に接続されながら変化し続けるあり方を意味しています。
この観点から見ると、リゾームはあくまで「どのようにつながるか」という構造のモデルであり、それ自体が最終的な問題ではありません。
それに対してプラトーの概念は、「どのような強度がどのように持続するか」というより基底的な次元を扱っています。
したがって、本書の核心は非中心性そのものではなく、終点をもたない強度の運動にあると捉えることができます。
で、ですね、さらに重要なのは、この強度の問題が抽象的な理論にとどまらず、身体的な経験に直接対応している点です。
緊張の高まりや持続、集中の維持、状態の滑らかな移行といった感覚は、身体を通じて経験されえるものです。この面から読むなら、本書の議論は特異な理論というよりも、すでに経験されている現象の記述として、案外簡単に理解可能になります。
なので、もっと簡単にぶっちゃけて言えちゃう面があるんですけれどね。実際ドゥールーズの文体を読んでみると難しそうに見えて、結構簡単なことを言っている面があるんですよね。身体的な感覚っていうのはなかなか文体で伝わりづらいっていうことなんですね。
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自分はあんまり趣味のない人間なんで勉強するくらいしかやることがないんで、色々とまあ 結構長年いろんな分野の勉強してきた気がしますね。実用的な分野の勉強しないんで困ったもんなんですが、その中で、例えば自然科学で、私が子供の頃はやがて太陽は拡大して地球を飲み込むみたいな話があったんですよね。
太陽は約50億年後に赤色巨星へ膨張し地球軌道付近まで達すると。
でも、同時に質量減少で地球の軌道は外側へ広がる。
つまり、潮汐作用により内側へ引き込まれる力も働き、最近の学説では、どちらが勝つかは未確定なんてすね。
近年は飲み込まれる可能性がやや高いとされてるようです。
とはいえ、約10億年以内に海は蒸発し、地球はその前に居住不能となりますね。つまり 人類は終わってるんでしょうね。
そんなことを知って何の意味があるのかっていうと、まあそれはそれで知りたかったっていうのはありますね。
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これは歳とってからも学ぶといいと思うんですよね。
教養科目的な内容も時代とともにどんどん変わっていくんですよね。
放送大学が便利なんですけど、この放送大学も5年に1回くらいコースを入れ替えてるんですよ。そのため 例えば、音楽史なんてもう何回もやってるんですけれど、毎回視点が変わって面白いですよ。
特に 放送大学で音楽史を学ぶと神紙で読んだけじゃなくてメディアがちゃんと聞けるんですごく勉強になりますね。
Hayato Shimabukuro(島袋隼士)@bukuro8810
大学を卒業してしばらく経って思うのは、「教養科目をもっと楽しめばよかった」ということです。大学は専門的な勉強をしに行くので、専門科目に力を入れがちなのですが、ある程度歳を重ねると、「もっと専門科目勉強すればよかった」ではなくて、「もっと教養科目を楽しめばよかった」と思う人も多いのではないでしょうか?なので、新入生の皆さんには是非、専門科目以外の学問を楽しんでもらいたいですね。 ちなみに私が教養科目で印象に残っているのは「岡崎フラグメント」と「音楽の歴史」です。私自身、教養科目を教えているので、一つでも多く学生の記憶に何かを残したいです。
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平安時代というのは、かつては国風文化、あるいは国風の文学の時代と言われてきたと思います。ただ、今の研究者はあまりそういう言い方はしないのではないかと思います。むしろ、対外交流や文化交流が活発に続いていた時代として捉えられていると思います。
ただ、日本は中国大陸やユーラシアで起きていた大きな動乱からは、地理的にかなり距離があった。もちろん国内にも争いはありますが、外から社会全体が壊されるような圧倒的な暴力に長くさらされ続けたわけではない、という幸運な状況はあったと思います。
そういう中で、人々の文化的な生活がある程度持続して、蓄積されていったという点が大きいと思います。そこで生み出されたものの規模も、かなり大きい感じがするんですね。
残っているものは一部にすぎなくて、特に言語文化なんかは相当失われているはずです。だから、今見えているものだけでも十分すごいのに、その背後にはもっととんでもないものがあったんじゃないか、という感じがどうしても出てくる。
その感覚をわりと直接的に感じさせるのが、藤原道長の納経ですね。寛弘4年(1007年)に、自筆の写経を金峯山に埋納した、いわゆる金峯山埋経ですが、紺紙金字の経巻が経筒に収められていて、そういうものが実際に作られて、しかも今に残っている。それを見ると、修士号研究の過程でもあり現物を見るんですが、当時の文化の到達点の高さとか、かけられている手間や資源の大きさとか、そういうものが一気に実感される感じがあるんです。
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