山本芳久 (Yoshihisa Yamamoto)

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@201yos1

東京大学教授。トマス・アクィナスを中心に、哲学・神学・キリスト教思想を研究。『トマス・アクィナス 理性と神秘』(サントリー学芸賞)、『ローマ教皇 伝統と革新のダイナミズム』ほか。NHK文化センターで「旧約聖書入門」「新約聖書入門」「キリスト教神学入門」をオンライン開講中。古典の言葉を今日の問いに重ねます。

Katılım Mart 2011
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山本芳久 (Yoshihisa Yamamoto)
【新規オンライン講座】 4月期のNHK文化センターの講座の情報が公開されました。「新約聖書入門」は「マルコによる福音書」を精読します。「旧約聖書入門」は「コヘレトの言葉」を六ヶ月で最初から最後まで講読します。「キリスト教神学入門」は、『神学大全』の「愛」についての箇所を読み解きます。
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偶像礼拝とは、偽りの神を拝むことを意味するだけではない。地上の権力者が自らを神の位置に置こうとするとき、それもまた偶像礼拝である。 トマス・アクィナスは、『神学大全』第二部の第二部第94問題第一項で、偶像礼拝の本質をこう定義する。「神的礼拝は最高の、造られざる神にのみ捧げるべきである。したがって、いかなる被造物にたいして神的礼拝が捧げられようと、すべて迷信的である」。 そして第三項で、この罪を「すべての罪のなかで最も重い」と述べる。 「かれは自分にできる限りにおいて神的支配権を減少させ、世界に他の神をつくりだしているからである」。 報道によれば、トランプ大統領は教皇レオ十四世を「犯罪に弱腰で、外交政策がひどい」と攻撃した直後に、自らをキリストのように描いたAI生成画像をSNSに投稿した。病者に手を置いて癒す、福音書的な構図である。 キリストの代理者(Vicarius Christi)である教皇を攻撃した直後に、自らをキリストの位置に重ねて示す。この画像から浮かび上がるのは、被造物が神にのみふさわしい位置へと自らを押し上げようとする、偶像礼拝的構図である。 これは単なる政治的挑発なのか。それとも、トマス・アクィナスが750年前に警告した偶像礼拝が、AI画像という新しい媒体を通じて、いま目の前に現れているのだろうか。
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「フェイクニュース」は現代の発明ではない。聖書にすでに、その構図が描かれている。 「マタイ福音書」第28章。空の墓をめぐって二つの証言が現れる。婦人たちは「復活」を告げた。番兵たちは祭司長たちに買収されて「弟子たちが遺体を盗んだ」という話を広めた。教皇レオ十四世は復活祭翌日(4月6日)、サン・ピエトロ広場で、この対比を今日の「フェイクニュース」に重ねた。 教皇はさらに踏み込んで、それを「歴史を腐敗させ、良心を混乱させる悪」と呼んだ。この「良心を混乱させる」という一句は重い。トマス・アクィナスによれば、良心(conscientia)とは、知を個々の行為に適用する理性的なはたらきである(『神学大全』第一部第79問題第13項)。良心が混乱するとは、個々の嘘に騙されることとは次元が違う。何が真で何が善いかを見分ける力そのものが曇らされる、ということだ。 だが教皇は、そこで止まらなかった。「真理は隠されたままではいない。むしろ、生き生きと、輝きをもって、私たちに向かって出てくる」と。番兵たちの嘘は権力と金に支えられていた。それでも、二千年後の今なお世界中で告げ継がれているのは、婦人たちの証言のほうである。 トマスの言い方でいえば、真理とは「事物と知性の一致」である(第一部第16問題第1項)。権力は嘘を拡散することはできる。だが、真理そのものを作ることも、消すこともできない。
Pope Leo XIV@Pontifex

Often, the proclamation of truth is obscured by what we today call “fake news” — lies, insinuations, and unfounded accusations. Yet, in the face of such obstacles, the truth does not remain hidden; rather, it comes forth to meet us, living and radiant, illuminating even the deepest darkness.

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「祈りは責任からの逃げ場ではない」。昨夜ローマで、教皇レオ十四世は平和のための祈りの会でそう語った。 祈りは、死に対する最も無私で、普遍的で、変革的な応答だというのである。 戦争と死のニュースが続くとき、祈りは現実逃避に見えるかもしれない。だが教皇は、正反対のことを語っている。 しかもこの祈りの会が行われたのは、「神のいつくしみの主日」にあたる本日の前夜である。この祝日は、ヨハネ・パウロ二世が2000年に全教会のために制定したものである。彼は回勅『いつくしみ深い神 Dives in Misericordia』で、神のいつくしみ(misericordia)は正義よりもさらに深く、さらに力強いものだと説いた。そして彼自身も2005年、この祝日を迎える夜に帰天している。 ここで興味深いのは、トマス・アクィナスが、この「いつくしみ」(misericordia、「憐れみ」とも訳される)と「正戦論」を、ひとつながりの問題として扱っていることである。『神学大全』第二-二部第30問題で、トマスはmisericordiaを「他人の苦しみを共に苦しむこと」と定義する。しかもこの問題は、先週触れた正戦論(第40問題)と同じ愛徳論の中に置かれている。 つまりトマスにおいて、戦争の正義を問うことも、苦しむ者への憐れみを語ることも、ばらばらの話ではない。どちらも、他者の苦しみを「自分には無関係だ」と切り離さない愛の問題なのである。 平和のために祈るとは、遠い国の見知らぬ人の苦しみを「自分には無関係だ」と言わないことではないか。教皇が昨夜語ったように、祈りは「逃げ場」ではない。それは、他者の苦しみを共に苦しもうとする決意の現れなのである。
Pope Leo XIV@Pontifex

Those who pray are aware of their own limitations; they do not kill or threaten with death. Instead, death enslaves those who have turned their backs on the living God, turning themselves and their own power into a mute, blind and deaf idol (Ps 115:4–8), to which they sacrifice every value, demanding that the whole world bend its knee. Enough of the idolatry of self and money! Enough of the display of power! Enough of war! True strength is shown in serving life. #Peace

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今夜、教皇レオ十四世がサン・ピエトロ大聖堂で「平和のための祈りの集い」を行う。 「祈って何になるのか」と問う人がいるだろう。中東の停戦がなお脆く揺れる今、祈りなど無力に見えるかもしれない。 だが、キリスト教における祈りとは、世界を外から変える魔術ではない。祈りはまず、祈る者自身を変える。 トマス・アクィナスが祈りを「知性の神への上昇」(ascensus intellectus in Deum)と定義するのはそのためだ。祈りとは、自分自身を神の秩序のうちに置き直す行為にほかならない。力で相手を動かすのではなく、自分がどう生き、どう他者と向き合うかを問い直す。 今夜の集いでは、アッシジの聖フランチェスコの墓で燃え続ける「平和のランプ」の火が、各大陸の信徒に手渡される。その火は爆弾のように世界を変えはしない。だが、一人ひとりの手のうちで静かに燃え、心の向きを変える。平和はそこからしか始まらない——アウグスティヌスが「秩序の静謐(せいひつ)」(tranquillitas ordinis)と呼んだものは、まずこの小さな火のようなものなのだ。
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寺本義明
寺本義明@teramotofl·
山本芳久『トマス・アクィナス 理性と神秘』(岩波新書、2017年)読了。 "ザ・スコラ哲学=煩瑣な議論の達人"のようなイメージを揺さぶってもらった。彼(ら)は何を議論していたのか、なぜそれが必要だったか。
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品川皓亮┃(株)COTEN┃『資本主義と、生きていく。』著者
こんな時こそ『世界は善に満ちている』(山本芳久)を読む必要があると思いました。
品川皓亮┃(株)COTEN┃『資本主義と、生きていく。』著者 tweet media
山本芳久 (Yoshihisa Yamamoto)@201yos1

今夜、教皇レオ十四世がサン・ピエトロ大聖堂で「平和のための祈りの集い」を行う。 「祈って何になるのか」と問う人がいるだろう。中東の停戦がなお脆く揺れる今、祈りなど無力に見えるかもしれない。 だが、キリスト教における祈りとは、世界を外から変える魔術ではない。祈りはまず、祈る者自身を変える。 トマス・アクィナスが祈りを「知性の神への上昇」(ascensus intellectus in Deum)と定義するのはそのためだ。祈りとは、自分自身を神の秩序のうちに置き直す行為にほかならない。力で相手を動かすのではなく、自分がどう生き、どう他者と向き合うかを問い直す。 今夜の集いでは、アッシジの聖フランチェスコの墓で燃え続ける「平和のランプ」の火が、各大陸の信徒に手渡される。その火は爆弾のように世界を変えはしない。だが、一人ひとりの手のうちで静かに燃え、心の向きを変える。平和はそこからしか始まらない——アウグスティヌスが「秩序の静謐(せいひつ)」(tranquillitas ordinis)と呼んだものは、まずこの小さな火のようなものなのだ。

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「神はいかなる紛争をも祝福しない」。 教皇レオ十四世のこの一句は、 あまりに正しく、むしろ「当たり前」に聞こえる。 私も最初はそう感じた。 だが、この当たり前は、長い神学的思索の結晶である。 教皇はキリストを「Prince of Peace(平和の君)」と呼ぶ。旧約聖書「イザヤ書」9章6節に由来するこの称号は、キリストの本質を「平和をもたらす者」として定義する。ではこの「平和」とは何か。アウグスティヌス以来、キリスト教は平和を単なる「戦争の不在」とは考えてこなかった。すべてのものが本来あるべき秩序のうちに置かれていること、すなわち「秩序の静謐」(tranquillitas ordinis)である。 トマス・アクィナスはこの伝統を受け継ぎつつ、さらに平和を愛徳(caritas)の果実として捉えた。平和は独立した何かとして成り立つのではない。人が他者の善を願い、共に生きようとするとき、そこにはじめて平和が芽生える。 その意味で、教皇の言う「patient promotion of coexistence(忍耐強い共存の促進)」という表現も重い。これをトマスの徳論に引き寄せて読むなら、ここでいうpatientは単なる「辛抱強さ」ではない。悲しみや怒りに押し流されず、より高い善に向かって踏みとどまる忍耐(patientia)として読める。 そう考えると、教皇の言葉の構造は明確になる。 平和は、力によって作られるのではない。愛をもって他者と共に在ることの困難を耐え抜くところから、生まれてくる。 「軍事行動は自由や平和の空間を生み出さない」という一文は、単なる感情的な平和主義ではない。イザヤからアウグスティヌスを経てトマスに至る、長い神学的伝統に支えられた命題なのである。
Pope Leo XIV@Pontifex

God does not bless any conflict. Anyone who is a disciple of Christ, the Prince of Peace, is never on the side of those who once wielded the sword and today drop bombs. Military action will not create space for freedom or times of #Peace, which comes only from the patient promotion of coexistence and dialogue among peoples.

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「祈り」で現実は動くのか。 教皇レオ十四世は、停戦を歓迎したその同じ声明の中で、平和のための祈りの徹夜祭へと招いた。 4月8日の一般謁見の末尾で教皇は、対話への意志が世界の他の紛争の解決にも役立つよう、祈りをもって支えてほしいと呼びかけた。教皇にとって、対話は祈りと切り離されたものではない。祈りによって支えられるとき、対話は平和への道になる。 トマス・アクィナスにとって、祈り(oratio)は現実逃避ではない。祈りとは、ふさわしい善——人が真に必要としているもの——を神に願い求める理性的行為であり(petitio decentium a Deo)、その祈りにおいて人は、自分の善の源を神に負っていることを言い表す(『神学大全』II-II, q.83)。だから祈りは、行動の反対ではない。むしろ、相手を力で屈服させようとする暴力の論理を拒みつつ、現実に関わるもう一つの仕方である。 武器を置くとは、武力で決着をつけようとする発想を手放すことだ。祈るとは、平和の源が自分の力の外にあると認めることだ。この二つは、別々のことではない。 平和のための祈りの徹夜祭は、明日4月11日、サン・ピエトロ大聖堂にて。ローマ時間18時(日本時間4月12日午前1時)。教皇は、現地だけでなく、自宅から祈りを合わせる人々をも招いている。
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【新規オンライン講座】(見逃し配信あり) NHK文化センターのオンライン講座、「新約聖書入門」と「キリスト教神学入門」は、いよいよ明日の土曜日(4/11)開講です!それぞれ、「マルコによる福音書」、トマス・アクィナス『神学大全』を、わかりやすく丁寧に読解していきます。見逃し配信もあります!nhk-cul.co.jp/programs/progr…
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最も古い福音書は、「恐怖」で終わる。 「マルコによる福音書」16章8節。空の墓で復活を告げられた婦人たちは、 「墓から飛び出て逃げ去った。われを失うほど恐れおののいていたからである。そして誰にも何も言わなかった。恐ろしかったからである。」(フランシスコ会訳) 「復活」の知らせを受けて、まず語られているのは喜びではなく、恐れと沈黙である。 しかも、一般に9節以降は後代の付加と考えられている。つまり、「マルコによる福音書」は、この「恐ろしかったからである」という一句で閉じられていることになる。 キリストの「復活」を告げられた人々は、すぐに喜んだのではなく、恐れおののいて逃げ去ったのである。 なぜマルコは、福音書をこのような仕方で閉じたのか。そこに、新約聖書に収められた4つの福音書の中で最も古いこの福音書の鋭さがある。 今週土曜日(4/11)から、NHK文化センターのオンライン講座で、この「マルコ福音書」を第9章から読み進めます。初めての方にもわかるように解説します。 ▼詳細・お申込 nhk-cul.co.jp/programs/progr…
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復活祭を迎え、あらためて思います。復活の物語が私たちの胸を打つのは、その前に、裏切りと孤独の物語があるからです。 最も古い福音書である「マルコ福音書」は、弟子たちの姿を容赦なく描きます。イエスの言葉を聞いても理解できない。命をかけると誓った者が、数時間後には「あの人を知らない」と言う。そして、弟子たちは皆、逃げ去っていく。 なぜマルコは、ここまで弟子たちの無理解と挫折を強調したのか。ここに、最も古い福音書の秘密があります。 この秘密を、原文に即して一緒に読み解いていく講座を開講します。 4/11(土)13:00〜 NHK文化センター青山教室(オンライン) 「新約聖書入門:「マルコによる福音書」を読む 」 初めての方にも入っていただきやすい内容です。見逃し配信あり。ご興味ある方はぜひ! ▼詳細・お申込 nhk-cul.co.jp/programs/progr…
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ペンタゴンが教皇大使に「アヴィニョン教皇庁」の話を持ち出した、という報道には息をのんだ。 アヴィニョン教皇庁とは、14世紀にフランス王が軍事力で教皇を屈服させ、教皇庁をローマから移転させた事件である。報道が事実なら、これは単なる外交摩擦ではない。国家が教会に「力の側につけ」と迫った、ということだからである。 ここで問われているのは、中世のいわゆる「二つの剣」の問題である。国家の軍事力と教会の霊的権威は、どのような関係に立つのか。 教皇ボニファティウス8世は『ウナム・サンクタム』(1302年)で、霊的権威の優位を強く主張した。トマス・アクィナスはこの問題をさらに精密に論じている。世俗権力には固有の領域がある。だが、人間の魂が最終的にどこへ向かうのか——永遠の至福——に関わる限り、世俗権力は霊的権力に従う。暴力によってではなく、どちらがより高い目的に仕えるかという秩序によってである。 「軍事力で何でもできる。教会はその側につくべきだ」という発想は、トマスの立場から見れば、問いの立て方そのものが誤っている。問題は、どの力が強いかではない。何が人間の魂を本当に導くのか、である。 中世は過ぎ去っていない。権力が教会に「力の側につけ」と迫るたびに、「二つの剣」の問題は現代に甦る。そのとき私たちは、どちらの剣に人間の魂を託すのかを問われている。
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レオ十四世「神は戦争を仕掛ける者たちの祈りを聞かない」。米保守系の一部では、正戦論を根拠にこれに反論する声が出ている。中には「教会の指導者たちは正戦論を学び直すべきだ」といった論調さえある。  だが、「学び直す」べきなのはどちらか。  トマス・アクィナスが『神学大全』(II-II, q.40)で展開した「正戦論」は、戦争を正当化する理論ではない。むしろ、「この条件を欠く戦争は罪である」と暴力に厳しい制限を課す理論である。正当な権威、正当な理由、正しい意図――この三条件が求められるのは、戦争を容易に認めるためではなく、人間が暴力を自己正当化することに歯止めをかけるためだ。  しかも、トマスはこの戦争論を、「愛徳(caritas)」に対立する悪徳を論じる一連の問いの中に配置している。不和、争い、分裂、そして戦争。戦争の問いは、愛と平和の秩序への違反として問われているのである。「慈悲に値しない者たち」への「圧倒的な暴力」を神に祈るような発想は、トマスの体系の対極にある。  いま『キリスト教とは何か』を書いている。この問いは避けて通れない。
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