Sabitlenmiş Tweet

皆さんこんばんは。
前回の投稿から日も経たないうちに、医療保護入院となり、あっという間に今日になりました。
退院して約1週間経ち、ようやくぼちぼちスマホを堪能できるように。
そして何より、声が戻りました。(これとても大事。)
1ヶ月以上の入院生活は、色々と制限のある中、病状の為、個室にて過ごしてました。
その間、自身が抱えるトラウマが、自分が思っていたより相当重たいものなのだと飲み込めた事が大きいかと思います。
物心ついた時から20年間弱、男性からの暴力暴言に耐え、時には抗ってきた事実は、骨の髄まで染み付いているものがあるようです。
それに加え、ADHD脳の自分の理解を当時(思春期)は皆無だったので、泣きっ面に蜂状態だったんだな、と(笑)
力の弱い女性なりの処世術もどう頑張っても下手くそで、どれだけ筋トレや体力作りしても、思春期頃から明らかに女性らしい身体に変化していく事への恐ろしさ。
一時、派手に着飾る事で防衛してた時期は、それがかえって変な絡みや痴漢に合うだけの骨折り損。と思い知らされ、女性らしい体つきになればなるほど、より地味に、動きやすさ重視になっていったなぁ、と。ハッとしました。
スカートやハイヒールが嫌なのは、いざという時に動きにくいから。いつでも全力で逃げたり攻撃できるように、幼い頃から、動きにくい服装は「好き」「嫌い」と言う以前の問題で、身の安全が保障されない不安から嫌だったのだな。と。
小学生時代、男の子から喧嘩を売られ、買った私は殴り合いの喧嘩をしました。お互い怪我をしたものの、決着がつく前に先生に止められたため、それがいまだに鮮明に覚えているほど悔しかったのが不思議でしたが、腑に落ちました。
シャトルランで、女子でただ1人残った私は、隣で走る男子がまだ数名いる事が悔しくて、口が切れて血の味が広がり、男子が残り1名となり、先生が止めに入る程必死の形相で走っていたのは、そう言うことか。
クラスの皆が、私の走りにどれだけ賞賛を送ってくれても、「ありがとう」と笑顔でお礼を言い、その後誰もいない所で泣いていた理由も、ピースがはまるように理解できました。
体力測定で、どれだけ女子の中で素晴らしい成績を取ったとしても、周りが賞賛してくれていようが、所詮、男子にはパワーも体力も劣るという事実がある以上、1ミリも喜べない自分を隠すように、褒めてくれる人たちへのせめてもの礼儀として、「ありがとう」と言っていたんだなぁ。
などなど。とんだコンプレックス抱えてるじゃないか?!とびっくりです。
自分の祖父母(親)のように暴力暴言に頼りたくない一心で、何世代も続いている負の連鎖を断ち切りたい一心で、生きているつもりでしたが、心の傷とまだちゃんと向き合えてない所がたくさんあったなと気付かされる入院生活でした。
退院前の担当医との話しで告げられたのは
「❶ADHD、❷発達性トラウマ障害、❸うつ症状」を抱えている事、❶については、特性に合った環境作りを、❷については、完治するには最低でもトラウマを育んだ年月(私の場合約20年)を必要とする事、❸については、❶と❷が揃ってだんだん良くなっていく
との事でした。
と書いている間に、途中体調や呼吸が不安定になり、また数時間後にXを開くという体たらくでございます。
トラウマを1番舐め腐っていたのは他でもなく私自身でした。
2〜3年で完治するトラウマは短期的にショックな出来事があった時であり、それだとしても、環境や適切な治療が揃わなければ、10年単位完治にかかることもあるわけで。
女は黙って男の言う事を聞け、男の身の回りの世話をしろ、という私の育った環境は、ADHD(因みに、「結構しっかり特性があります。実際できていることも、だいぶ心身共に無理している事を自覚しましょう」と言われてしまったw)の特性を持った女性としては生きにくさのハードルが更に上がっていた事でしょう。
年単位で見ても、働きに出ている場合ではない事も、しっかり自分と向き合ってマイペースに子育てできる環境にシフトしていくしかない事も、もう流石にわかりました。
障害年金も申請ちゃんとします。カウンセリングもちゃんと受けます。生活のために働きに出る、という事ができない状態だという事を、本当のところ、まだわかっていなかったです。
努力の方向性間違えてました。反省します。
失声症になった時、意思疎通の不便さより歌を歌えない事が辛かったり、発作によって、絵も書も描けない状態になる事が何より辛かったりすることだと痛感しました。
今でも、毎日お風呂に入る体力気力はありませんが、クリエイティブな事はいつ何時でもしています。
それをここでは赤裸々に記録もしていこうかと思います。
書やイラストだったり、歌だったり、なんでも。
ただいま。そして宜しくお願い致します。
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