🕊️𐒅𐒡

2.1K posts

🕊️𐒅𐒡 banner
🕊️𐒅𐒡

🕊️𐒅𐒡

@DKMWWII

🧐1930-1940年代のKriegsmarine(旧ドイツ海軍)に関係する古写真を紹介しています。ウォーターマーク入り画像は私個人の蒐集品をスキャンしたもので、Web等からの拾い画ではありません。元の写真の変色や傷、露出の偏りや傾き等は随意に補正してあります。  🫖お茶好き🍵

Katılım Mayıs 2010
99 Takip Edilen353 Takipçiler
🕊️𐒅𐒡
🕊️𐒅𐒡@DKMWWII·
1943年後半、オデーサ  聖パンテレイモン修道院と市内を行進するドイツ海軍兵士 解隊された黒海の11.S-Flottilleからアドリア海で新設される24.S-Flottilleへの転属のため移動中の下士官が撮影したもので、行進しているのは同じ部隊員なのかもしれない
🕊️𐒅𐒡 tweet media🕊️𐒅𐒡 tweet media
🕊️𐒅𐒡@DKMWWII

イタリア降伏後に同国海軍から鹵獲した魚雷艇(MAS, MS)で編成された24.S-FlottilleのS621型Sボート  どの艇か不明だが側面に潜水艦と水兵らしきイラストが描かれている

日本語
0
0
5
138
🕊️𐒅𐒡
🕊️𐒅𐒡@DKMWWII·
@Zolliker1 はい😉、招待券持参でも軍服姿だったので入場を断られるも、最終的には支配人らしき人の計らいで入れてもらえたという
日本語
0
0
1
27
🕊️𐒅𐒡
🕊️𐒅𐒡@DKMWWII·
@Zolliker1 頼惇吾氏の日記には、この写真の翌日に伊藤、根木両氏に誘われてカジノを見学した記述がありますが、見学にとどまらない人の方が多かったかもしれませんね。
日本語
1
0
1
25
日瑞関係のページ
@DKMWWII とても興味深い写真です。 「当時ケーニヒスベルクの日本領事館を訪問する軍人の目的は、ツォポットのカジノであった」という記述を読んだ記憶があります。
日本語
1
0
2
67
🕊️𐒅𐒡
🕊️𐒅𐒡@DKMWWII·
午後のお茶  凍頂烏龍  カップ: ウースター, 1765-70年頃
🕊️𐒅𐒡 tweet media
日本語
0
0
7
174
🕊️𐒅𐒡
🕊️𐒅𐒡@DKMWWII·
1944年4月27日朝、黒海での作戦を終えコンスタンツァに帰着したIIB型UボートU18 艦長フライゲ(Karl Fleige)中尉と地域の海軍司令官ヴァイヤー(Kurt Weyher)大佐の周囲に複数の空軍将校がいるのは、同艦が帰投中の25日にBV138飛行艇の誤爆を受け急速潜航で難を逃れた件と関係しているに違いない
🕊️𐒅𐒡 tweet media
日本語
0
1
18
268
🕊️𐒅𐒡
🕊️𐒅𐒡@DKMWWII·
午後のお茶  金谷和紅茶 べにひかり セカンドフラッシュ, 井村園
🕊️𐒅𐒡 tweet media🕊️𐒅𐒡 tweet media
日本語
0
0
7
118
🕊️𐒅𐒡
🕊️𐒅𐒡@DKMWWII·
シラクサ、1944年 シチリアの彫刻家ルチアーノ・カンピージにより1885年に制作されたアルキメデスの胸像と3.S-FlottilleのSボート乗組員たち
🕊️𐒅𐒡 tweet media
日本語
0
4
25
870
🕊️𐒅𐒡
🕊️𐒅𐒡@DKMWWII·
夕方のお茶 雲南緑茶 蘭韵白毫 アーモンドストロベリーレイズド, 抹茶レイズド  ランディーズドーナツ
🕊️𐒅𐒡 tweet media
日本語
0
0
6
249
🕊️𐒅𐒡
🕊️𐒅𐒡@DKMWWII·
同月、シャルンホルストのホフマン艦長離任時のカッターにも何か敷かれてはいるようですが、少なくとも紋章は見えません。 日本の短艇敷物のように色分けなどの仕様が規定されたものではなさそうですね。
🕊️𐒅𐒡 tweet media
mzk@08/15@smiyazaki11

@DKMWWII これは興味深い写真を拝見しました! 何より帝國海軍で言う「短艇敷物」らしきものが見えるのが面白いです。ありがとうございました。

日本語
1
1
9
297
🕊️𐒅𐒡
🕊️𐒅𐒡@DKMWWII·
1940年4月25日付のPK写真 写真の少佐はHafenkommmandant von Osloと書かれているが、当時のHako Osloは4月22日に着任した軽巡Karlsruhe元艦長のFriedrich Rieve大佐なので階級が一致しない Hafenkapitän (Haka) OsloのEduard Bodenstein少佐なら階級が合うが、彼の容貌が不明なので判断は難しい
🕊️𐒅𐒡 tweet media
日本語
0
7
64
1.4K
ryo
ryo@rshibar·
🤔🤔
ryo tweet mediaryo tweet mediaryo tweet mediaryo tweet media
QME
1
0
14
561
🕊️𐒅𐒡
🕊️𐒅𐒡@DKMWWII·
ピオンビーノにいたイタリア軍の中戦車大隊は砲弾の欠乏が著しく、上陸していたドイツ兵の掃討が主だったようだし、MAS艇による攻撃の記録はない TA11に大きな損害を与えたのは沿岸砲の攻撃と隣接した船からの延焼で、「戦車に撃沈された」事例に含めるのは適切ではないように思う
MC☆あくしず&ミリクラ編集部@mc_axis

【戦車に撃沈された駆逐艦の話】 ドイツのティーガー重戦車の伝説の一つとして、「シチリア島で駆逐艦と撃ち合った」というものがあります。 実際は上陸用舟艇を攻撃しようとしたところ、駆逐艦が出てきて(その後には軽巡も来て)撤退したという感じみたいですね。 ティーガーの8.8cm砲が陸戦でいかに強力でも、水上艦艇に対しては駆逐艦に対してすら、砲の口径、射程、門数や照準能力が違うから太刀打ちできない、そもそも土俵が違う……という話です。 ところが、実際に戦車に撃沈された(とも言える)駆逐艦(?)があったんです。 それが、ドイツ海軍のTA11水雷艇。 この艦は元々フランス海軍のラ・メルポメーヌ級水雷艇「リフィジェニー」で、1942年12月8日にチュニジアのビゼルトでドイツ海軍に接収されました。 その後、イタリア海軍に移管されてFR.43に改名、1943年4月5日には再びドイツ海軍に戻されてSG48哨戒艇として再就役し、同年5月15日に水雷艇に転籍されてTA11となりました。 このような艦歴をたどったTA11は、1943年9月10日、姉妹艦のTA9とともに、イタリアのピオンビーノを訪れます。 ピオンビーノはイタリア半島西岸、エルバ島の向かいにある海上交通路の要衝。 9月8日のイタリア降伏後、ドイツ軍は北イタリアのイタリア軍を武装解除する「アクセ」作戦を実行しており、ピオンビーノにも部隊を送り込みます。 TA9とTA11はドイツ軍歩兵を乗せた輸送船を護衛してピオンビーノに入港したのです。 ところが、駐留していたイタリア軍の一部は同市を明け渡すのを良しとせず、武装した民間人を含め、ドイツ軍に抵抗します。 10日夜、イタリア戦車部隊(一説にはM15/42中戦車と自走砲)と地上砲台が、港に停泊していたTA9とTA11を攻撃。 TA11は機関を損傷した後、イタリアのMAS魚雷艇にとどめを刺されて、11日朝に沈没してしまいました。 これがTA11が「戦車に撃沈された」経緯です。 最後はMAS魚雷艇の戦果ですが、戦車(など)の攻撃で機関を損傷させているので、共同での撃沈戦果と言ってもいいのではないでしょうか。

日本語
0
0
6
334
🕊️𐒅𐒡
🕊️𐒅𐒡@DKMWWII·
1942年4月21日午前、ダンツィヒで重巡洋艦Lützowに乗艦する海軍総司令官Erich Raeder元帥 2枚目でレーダーと握手しているのは艦長のシュタンゲ(Rudolf Stange)大佐
🕊️𐒅𐒡 tweet media🕊️𐒅𐒡 tweet media
日本語
0
9
61
1.6K
🕊️𐒅𐒡
🕊️𐒅𐒡@DKMWWII·
裏にラベルなどはなく詳細を忘れてしまったけれど、香り良く、とにかくおいしいのでまあいいか
🕊️𐒅𐒡 tweet media
日本語
0
0
2
130
🕊️𐒅𐒡
🕊️𐒅𐒡@DKMWWII·
夜のお茶  緑茶 香駿 マルヒ製茶  イチゴういろ
🕊️𐒅𐒡 tweet media
日本語
1
0
7
216
🕊️𐒅𐒡
🕊️𐒅𐒡@DKMWWII·
1943年4月20日頃、コーフィヨルドに停泊する戦艦Tirpitz上のクメッツ(Oskar Kummetz)海軍大将  クメッツは1942年6月にノルウェーでBefehlshaber der Kreuzer (BdK)の司令官に就任、同組織は1943年2月にBefehlshaber der Kampfgruppeへ改称され、引き続きBdKの略称で呼ばれた
🕊️𐒅𐒡 tweet media
🕊️𐒅𐒡@DKMWWII

エッカーンフェルデ、1941年4月7日  ドイツ海軍の魚雷実験所(TVA Eckernförde)にて  魚雷総監クメッツ(Oskar Kummetz)少将と共に施設を回る野村直邦 中将  2枚目は頼惇吾 造兵大佐(後に呉工廠魚雷実験部長)と海軍監督官の奥明 造兵中佐(眼鏡姿)

日本語
0
6
41
1.2K