
松浦 桀
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外国人は神を超える存在である天を想定していないので理解不能だろう。 逆に日本人が無神論者にみえる理由は、お天道様の存在が根付いているため。 天より下位にある神を絶対視しない。 お天道さまがみているについては『後漢書』楊震伝の「四知」が有名。 「誰も知りませんから」と賄賂を渡そうとする相手に対して楊震(西暦54年〜124年)は、 「天が知る、神が知る、わたしが知る、おまえも知る。どうして誰も知らないといえようか!」と答えた。 『資治通鑑』を編纂した司馬光(西暦1019年〜1086年)は、神を地に変えている。北宋の中国人は後漢の中国人の常識を継承していないのである。 『後漢書』楊震伝 「大將軍鄧騭聞其賢而辟之,舉茂才,四遷荊州刺史、東萊太守。當之郡,道經昌邑,故所舉荊州茂才王密為昌邑令,謁見,至夜懷金十斤以遺震。震曰:「故人知君,君不知故人,何也?」密曰:「暮夜無知者。」震曰:「天知,神知,我知,子知。何謂無知!」密愧而出。後轉涿郡太守。性公廉,不受私謁。子孫常蔬食步行,故舊長者或欲令為開產業,震不肯,曰:「使後世稱為清白吏子孫,以此遺之,不亦厚乎!」


外国人は神を超える存在である天を想定していないので理解不能だろう。 逆に日本人が無神論者にみえる理由は、お天道様の存在が根付いているため。 天より下位にある神を絶対視しない。 お天道さまがみているについては『後漢書』楊震伝の「四知」が有名。 「誰も知りませんから」と賄賂を渡そうとする相手に対して楊震(西暦54年〜124年)は、 「天が知る、神が知る、わたしが知る、おまえも知る。どうして誰も知らないといえようか!」と答えた。 『資治通鑑』を編纂した司馬光(西暦1019年〜1086年)は、神を地に変えている。北宋の中国人は後漢の中国人の常識を継承していないのである。 『後漢書』楊震伝 「大將軍鄧騭聞其賢而辟之,舉茂才,四遷荊州刺史、東萊太守。當之郡,道經昌邑,故所舉荊州茂才王密為昌邑令,謁見,至夜懷金十斤以遺震。震曰:「故人知君,君不知故人,何也?」密曰:「暮夜無知者。」震曰:「天知,神知,我知,子知。何謂無知!」密愧而出。後轉涿郡太守。性公廉,不受私謁。子孫常蔬食步行,故舊長者或欲令為開產業,震不肯,曰:「使後世稱為清白吏子孫,以此遺之,不亦厚乎!」


いろんな三国志ゲーを遊んで思うのが、新野劉備はシステム的に正史に寄れば寄るほどどうにもならないほど積んだ状況よね。 それをどうにかして三国鼎立に持ち込んだ史実劉備の凄さって、正史寄りゲームであるほど実証されちゃうし、新野劉備を初期勢力として楽しく遊べるようにしてる光栄えらい

伏見稲荷の竹に記念カキコした件だけど、日本人の多くが「天は必ず見ている」という認識で彼を見ていて。 日本人は「誰に見られていなくても、自分の行いは必ず天が見ている」「天に恥ずかしい行いをしない」として自身の行いを律しろ、という価値観を持つ(もちろん持たない人もいて、そういう人はだいたい白眼視される)。 今回、彼は、 「撮影された」→「非難された」→「彼にこれから起きる祟りを見越して、距離を取られた」→「個人特定された」 というところまで、一日も掛からずに辿り着いてしまった様子。


「陳羣」のような連中がこれまで正道だったのも、曹操が怖くてひたすら仕事に励むしかなかったからだ。曹丕は威厳と恩情を共に与える事ができたが、曹叡では無理だ。陳羣一味は必ずやこの機を利用し互いに派閥をつくりあって、それぞれが仲間の利益を計るに違いない… ここ「陳羣」じゃなくて「司馬…


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【蜀漢最後の『安定の要石』:門番から外交のカリスマへ――鄧芝、いかにして弁舌ひとつで国家を四十年延命させたか】 成都の武侯祠にある文臣廊に、鄧芝の像は静かに佇んでいる。その地位は蒋琬や費禕に次ぐものだが、蜀漢後期のこの大黒柱に対する一般的な記憶は、往々にして曖昧だ。「火焼連営」の凄惨さや、诸葛亮の「七縦七禽」の伝説は語られても、あの壊滅的な敗戦の後、誰が単身呉に乗り込み、蜀漢を崩壊の淵から引き戻したのかは忘れられがちである。 鄧芝の人生は、まさに「大器晩成」の歴史だ。彼は後漢の開国元勲・鄧禹の後裔という名門の出ながら、そのスタート地点は驚くほど低かった。郫県という辺境の地で、桟道の管理人(邸閣督)として働く小役人に過ぎなかったのだ。もし劉備が微行(密かに視察)で彼と言葉を交わさなかったなら、彼は一生、山間部で行き交う隊商を数えるだけの下級官吏で終わっていただろう。 史書によれば、劉備は鄧芝と対談した後、「大いにその才に驚いた」と記されている。これは単なる社交辞令ではない。当時の蜀漢は、関羽の荊州喪失と劉備の猇亭の敗北という連鎖的打撃を受け、精鋭を喪失。国内では反乱が頻発し、魏は虎視眈々と機会を窺い、呉とは敵対関係にあった。诸葛亮が「呉との関係修復」に頭を悩ませる中、満朝の文武は不可能と考えていたが、鄧芝ただ一人が立ち上がり、核心を突いた。「大王(孫権)がもし魏に臣従すれば、魏は必ず朝貢を求め、さらには人質として太子(孫登)を差し出すよう迫るでしょう。拒否すれば、魏は討伐の名目を得て攻め込みます。そうなれば蜀軍も東下し、呉の滅亡は必至です」 これは外交辞令ではなく、赤裸々な地政学の計算だった。 鄧芝の呉への使節派遣は、極めてハイリスクな賭けであった。孫権は当時、魏の文帝・曹丕に臣従しつつも蜀漢と示しをつける「二股外交」を行っていた。猜疑心が強く、皮肉屋として知られるこの江東の主に対し、鄧芝は驚くべき精神力を見せた。伝統的な使節のようにへつらうことなく、孫権の立場に立って「生存の計算書」を提示したのだ。魏に降れば滅び、蜀と組めば鼎立が可能になると。 最も劇的なのは、孫権が迷いを見せた瞬間のやり取りだ。「もし大王が蜀漢を遠く離れた辺境と見なし、魏に接近したいのであれば、それも止めはしません。しかし魏が大王に上京を求め、太子を人質に取れと迫った時、それを拒むならば魏は必ず攻め込みます。その時、蜀軍が川を下ってくれば、江南の地はもはや大王のものではなくなるでしょう」 この言葉は孫権の急所に突き刺さった。実際、曹丕は再三にわたり孫権に人質を要求しており、孫権はそれを強く嫌っていたのだ。鄧芝はその心理を鋭く突き、孫権に蜀漢との同盟が唯一の生き残り策であると悟らせた。最終的に孫権は「孤(寡人)は蜀と連合することにした。卿の言う通りだ」と断言し、「両国を和合させられるのは、鄧芝をおいて他にいない」とまで絶賛した。 外交面での華々しい活躍以外にも、鄧芝の軍事才能は過小評価されがちだ。第一次北伐では、趙雲と共に箕谷(きこく)で陽動作戦を展開し、魏の曹真の主力を牽制した。街亭の敗北で全軍が崩壊寸前の中、趙雲と鄧芝の部隊だけが「軍を収めて固く守り、大敗を免れた」。撤退時も、軍需物資を一つも捨てることなく、組織を維持したまま撤退した。劣勢の中で軍の崩壊を防ぐこの能力こそが、名将の試金石である。 晩年、鄧芝は江州の都督として十数年間鎮守した。「蜀道は難し、青天を上るより難し」と詠われた時代、江州は蜀と呉を繋ぐ喉元だった。诸葛亮が鄧芝を配置したのは、その武勇だけでなく、孫権との個人的な信頼関係を重んじたためだ。事実、鄧芝が在任中、国境は平穏無事だったという。彼は岩に矢を射て入れるほどの剛毅な人物でもあった。 しかし、人に完璧な人はいない。『三国志』は鄧芝について「性格が剛毅で簡素、感情に飾り気がない」と記している。兵士への接し方は厳格を極め、訓練以外では非情とも思える冷酷さがあった。だが、それこそが乱世の将に求められた資質なのだ。資源が枯渇する蜀漢後期、鉄の腕でなければ軍の戦闘力を維持できなかった。 紀元251年、鄧芝は江州の任所で病没した。遺産と呼べるものはなく、書籍とわずかな衣服だけが残されていた。彼はその生涯を通じて诸葛亮の「呉と連合し魏に抗う」戦略を実行し、蜀漢に四十年の息継ぎの時間を与えたのである。 三国志を振り返ると、我々はあまりにも多くの悲劇的英雄を記憶してきた。しかし、出自が微々たるものでありながら、人間性を見抜く知恵と揺るぎない実行力で、国の最も暗い時期に力強く舵を切り、最後まで生き抜いた実務家こそが、真の時代の支柱と言えるだろう。彼は演義の主役ではないが、歴史の歯車を回す上で不可欠な「キーパーソン」だったのである。







