松浦 桀

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@HAMLABI3594

三國志好き。漢は劉宏(靈帝)、魏は曹休、呉は周瑜、蜀は姜維推し

Katılım Nisan 2010
451 Takip Edilen838 Takipçiler
松浦 桀
松浦 桀@HAMLABI3594·
@sosoOMSA3 この問題は難しいですね。 日本人は天の姿を描きません。 また文字で描くこともありません。 そもそも天を描くという発想がありません。 それがヒトが造ったものとの違いです。
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匆匆
匆匆@sosoOMSA3·
@HAMLABI3594 東洋的な「天」と、アブラハム系の「神」とは概念的にかなり近しく、上下関係を仮定できないように思われます。 いずれも最も上位かつ根源的な存在であるというのは共通しており、違いはその性質ではないでしょうか。だからこそカトリック教徒はDeusを「天主」と訳したのだろうし。
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匆匆
匆匆@sosoOMSA3·
これはどうでしょうか。例の「外国人」が信じるのがアブラハム系一神教だと仮定するならば、その「神」が「天」より下位に属するとするのは困難でしょう。 「四知」に現れる神をそのまま西方のそれに適用できるとは思われないし、西方の神は「天主」と漢訳することもあるし。
松浦 桀@HAMLABI3594

外国人は神を超える存在である天を想定していないので理解不能だろう。 逆に日本人が無神論者にみえる理由は、お天道様の存在が根付いているため。 天より下位にある神を絶対視しない。 お天道さまがみているについては『後漢書』楊震伝の「四知」が有名。 「誰も知りませんから」と賄賂を渡そうとする相手に対して楊震(西暦54年〜124年)は、 「天が知る、神が知る、わたしが知る、おまえも知る。どうして誰も知らないといえようか!」と答えた。 『資治通鑑』を編纂した司馬光(西暦1019年〜1086年)は、神を地に変えている。北宋の中国人は後漢の中国人の常識を継承していないのである。 『後漢書』楊震伝 「大將軍鄧騭聞其賢而辟之,舉茂才,四遷荊州刺史、東萊太守。當之郡,道經昌邑,故所舉荊州茂才王密為昌邑令,謁見,至夜懷金十斤以遺震。震曰:「故人知君,君不知故人,何也?」密曰:「暮夜無知者。」震曰:「天知,神知,我知,子知。何謂無知!」密愧而出。後轉涿郡太守。性公廉,不受私謁。子孫常蔬食步行,故舊長者或欲令為開產業,震不肯,曰:「使後世稱為清白吏子孫,以此遺之,不亦厚乎!」

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さとうしん
さとうしん@satoshin257·
@HAMLABI3594 一応の答えを出してる人もいます。たとえばこの本→ amazon.co.jp/%E3%82%AD%E3%8… では、日本人がキリスト教を受け入れてこなかったわけではなく、受容のあり方が無教会主義的なのではないかとしています。これが当たってるかどうかは要検討でしょうけど。
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さとうしん
さとうしん@satoshin257·
その理屈でいくと「天」の思想を共有する大方の東アジア人は日本人を無神論者として見ないということになりそうだけど。
松浦 桀@HAMLABI3594

外国人は神を超える存在である天を想定していないので理解不能だろう。 逆に日本人が無神論者にみえる理由は、お天道様の存在が根付いているため。 天より下位にある神を絶対視しない。 お天道さまがみているについては『後漢書』楊震伝の「四知」が有名。 「誰も知りませんから」と賄賂を渡そうとする相手に対して楊震(西暦54年〜124年)は、 「天が知る、神が知る、わたしが知る、おまえも知る。どうして誰も知らないといえようか!」と答えた。 『資治通鑑』を編纂した司馬光(西暦1019年〜1086年)は、神を地に変えている。北宋の中国人は後漢の中国人の常識を継承していないのである。 『後漢書』楊震伝 「大將軍鄧騭聞其賢而辟之,舉茂才,四遷荊州刺史、東萊太守。當之郡,道經昌邑,故所舉荊州茂才王密為昌邑令,謁見,至夜懷金十斤以遺震。震曰:「故人知君,君不知故人,何也?」密曰:「暮夜無知者。」震曰:「天知,神知,我知,子知。何謂無知!」密愧而出。後轉涿郡太守。性公廉,不受私謁。子孫常蔬食步行,故舊長者或欲令為開產業,震不肯,曰:「使後世稱為清白吏子孫,以此遺之,不亦厚乎!」

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松浦 桀
松浦 桀@HAMLABI3594·
益州の劉璋に敗れて流浪していた甘寧も劉備と同じように部下を引き連れて劉表に身を寄せました。劉備が劉表の世話になったのは201年です。このとき甘寧は黄祖のもとに居ました。劉備は同じ境遇の甘寧を自分の未来の姿に重ねていたかもしれません。 甘寧の生年は西暦150年以前と推定されるため劉備より一回りは年上です。むしろ劉表に近いです。 甘寧は劉表に冷遇されたため孫策に身を寄せようとしたところ黄祖により足止めされます。それから3年後に甘寧は黄祖軍に加わると、のちに孫権軍の凌操を討ち取る功績を挙げました。 甘寧が3年経ってから黄祖軍に加わった理由は、おそらく部下を食わせていけなくなったためでしょう。金の切れ目が縁の切れ目です。800人いた甘寧の部下は次々と黄祖に引き抜かれました。蘇飛のおかげで黄祖のもとを離脱して県令となるとかつての部下を呼び戻したり新たな志願者を加えました。部下は数百人にまで戻りました。つまり甘寧の部下は数十人にまで減っていた可能性はあります。 劉表は甘寧と違って劉備の兵を増やして新野に駐屯させました。しかし荊州の豪傑の多くが劉備軍に加わるのをみると劉備の勢力を削る方向に舵をきりました。具体的に何をしたのかは書かれていませんが、いづれにせよ劉備は収入源を劉表に依存していました。金がなければ勢力は維持できません。おそらく黄祖が甘寧にしたことと同様のことをしたのでしょう。 つまり収入源がなく劉表の一存でどうとでもなることが劉備の不安材料だったと思われます。
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mist
mist@mistbox12·
素朴な疑問。正史の新野劉備って劉表の庇護下で戦も少なく、安定していた時期だと思うのだけど、どこに詰みがあったのだろう……?髀肉……?(このまま埋もれる可能性もあったから、気持ち的には詰みかもしれない) なおここから三国鼎立に持ち込んだのは間違いなくすごい。
うどん@@udon0401

いろんな三国志ゲーを遊んで思うのが、新野劉備はシステム的に正史に寄れば寄るほどどうにもならないほど積んだ状況よね。 それをどうにかして三国鼎立に持ち込んだ史実劉備の凄さって、正史寄りゲームであるほど実証されちゃうし、新野劉備を初期勢力として楽しく遊べるようにしてる光栄えらい

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さとうしん
さとうしん@satoshin257·
@HAMLABI3594 それだと台湾や韓国でキリスト教徒が多い理由を説明できないのではないかと。
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松浦 桀
松浦 桀@HAMLABI3594·
@udon0401 @LiohIC6ZKtpM6mn なんでいきなり亡くなってしもうたんやろ劉琦。演義だと病弱設定まで追加されちゃって。
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うどん@
うどん@@udon0401·
いろんな三国志ゲーを遊んで思うのが、新野劉備はシステム的に正史に寄れば寄るほどどうにもならないほど積んだ状況よね。 それをどうにかして三国鼎立に持ち込んだ史実劉備の凄さって、正史寄りゲームであるほど実証されちゃうし、新野劉備を初期勢力として楽しく遊べるようにしてる光栄えらい
うどん@ tweet media
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松浦 桀
松浦 桀@HAMLABI3594·
外国人は神を超える存在である天を想定していないので理解不能だろう。 逆に日本人が無神論者にみえる理由は、お天道様の存在が根付いているため。 天より下位にある神を絶対視しない。 お天道さまがみているについては『後漢書』楊震伝の「四知」が有名。 「誰も知りませんから」と賄賂を渡そうとする相手に対して楊震(西暦54年〜124年)は、 「天が知る、神が知る、わたしが知る、おまえも知る。どうして誰も知らないといえようか!」と答えた。 『資治通鑑』を編纂した司馬光(西暦1019年〜1086年)は、神を地に変えている。北宋の中国人は後漢の中国人の常識を継承していないのである。 『後漢書』楊震伝 「大將軍鄧騭聞其賢而辟之,舉茂才,四遷荊州刺史、東萊太守。當之郡,道經昌邑,故所舉荊州茂才王密為昌邑令,謁見,至夜懷金十斤以遺震。震曰:「故人知君,君不知故人,何也?」密曰:「暮夜無知者。」震曰:「天知,神知,我知,子知。何謂無知!」密愧而出。後轉涿郡太守。性公廉,不受私謁。子孫常蔬食步行,故舊長者或欲令為開產業,震不肯,曰:「使後世稱為清白吏子孫,以此遺之,不亦厚乎!」
加藤AZUKI@azukiglg

伏見稲荷の竹に記念カキコした件だけど、日本人の多くが「天は必ず見ている」という認識で彼を見ていて。 日本人は「誰に見られていなくても、自分の行いは必ず天が見ている」「天に恥ずかしい行いをしない」として自身の行いを律しろ、という価値観を持つ(もちろん持たない人もいて、そういう人はだいたい白眼視される)。 今回、彼は、 「撮影された」→「非難された」→「彼にこれから起きる祟りを見越して、距離を取られた」→「個人特定された」 というところまで、一日も掛からずに辿り着いてしまった様子。

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松浦 桀
松浦 桀@HAMLABI3594·
@ShoUeno3 神谷明がクビになったとき反対意見を出したから、これくらいの対応でええやろという上層部判断なんじゃないかな。
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翔太郎
翔太郎@ShoUeno3·
…え、何?メインヒロイン役の声優が亡くなったのにあのテロップだけ? クレしんのひろし役の藤原啓治さんや、のび太役の小原乃梨子さんの時みたいな事やろうよ… 30年もの間、貢献して下さったんだからさぁ… #名探偵コナン
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松浦 桀@HAMLABI3594·
孫権は呂蒙から、赤壁の戦いのときに周瑜と程普を左右の督にしたため、続く江陵の戦いでは(程普のせいで)あやうくまけそうになりました、命令系統は一本化すべきですと言われたことがあります。それからは呂蒙の意見に従っています。孫権は命令系統が一本化されていないことの怖さを知っていたため、これが魏の滅亡の原因になると断じたのでしょう。
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三国志こばなし集(三国時代編)
@HAMLABI3594 とても丁寧な解説をありがとうございます! この件を読んで、どうして呉で直接相対する訳ではない陳羣を、孫権が殊更ディスるのかピンとこなかったので、実は直接ぶつかる司馬懿も含んだ牽制を兼ねた発言だったんじゃないかと妄想してたんですが、裏付けできうる要素が揃っていたんですね!
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松浦 桀
松浦 桀@HAMLABI3594·
ちくまは「此曹等輩」の曹を諸曹(役所)の意味で理解して「陳羣らの一味」と訳しているが、この曹は曹氏の意味であるから「曹真らの一味」と訳すべきである。 孫権がこの発言をした時期は227年~228年。 このとき曹叡は24~25歳。 このとき孫権は46~47歳 そして、このとき夏侯徽は17~18歳。 夏侯徽の父親の夏侯尚は226年に亡くなっている。 夏侯徽の母親は曹真の妹。 おそらく夏侯徽と司馬師との婚姻は225年。 これは政略結婚であろう。つまり、 曹真らの一味とは司馬懿のことで間違いない。 だから三國志は書けない。 このとき司馬懿は49~50歳。 曹真はおそらく司馬懿と同じくらい。 曹休は55歳くらい。 陳羣はおそらく曹休より年上。 最後の方で孫権はこう締めくくる。 「どうして4人も5人もが裁断権を持っている状態で、裏切って足を引っ張りあうことがない者がいようか!(いや絶対裏切るやつがでるぞ) これこそが魏が乱れ滅ぶ道なのだ。」 いずくんぞ構文ですね。 ここで4人5人と言っていることから、元々の文章は曹真子丹と陳羣長文の2人だけではなく、4人ないし5人だったのを陳寿は削って2人にしたのである。李厳伝に「魏は司馬懿らが開府している(俺も開府させろ)」と李厳が諸葛亮に要求したと諸葛亮が言っている。 つまり残りの2人は司馬懿仲達と曹休文烈であろう。 そもそも対呉戦線の前線に駐屯していたのは陳羣と曹真ではなく、司馬懿と曹休であるから、元々の文章は 「聞任司馬仲達、陳長文、曹文烈、曹子丹輩」 であったはずである。 この逸話は予言である。 228年の石亭の戦いで、司馬懿は曹休への援軍を命じられたが、川が凍っていて進めないという理由で戦線に参加しなかった。 曹休伝には「太和二年,帝為二道征吳,遣司馬宣王從漢水下,督休諸軍向尋陽。」 228年に曹叡は東西二道より征呉をなし、司馬懿に漢水を下らせて曹休の諸軍を督させて尋陽に向かわせた。 とある。 現行の三國志は陳景雲の説に従って「督休諸軍向尋陽」を「休督諸軍向尋陽」に改めている。 晋書に「太和元年六月,天子詔帝屯于宛,加督荊、豫二州諸軍事。」 とあることから司馬懿はこのとき荊州豫州の都督と理解 したためであろう。 しかし三國志の魏書蔣濟伝に 「明帝即位,賜爵關內侯。大司馬曹休帥軍向皖,濟表以為深入虜地,與權精兵對,而朱然等在上流,乘休後,臣未見其利也。」 蔣濟は長江の上流、つまり荊州の江陵を守備する呉の朱然が、曹休の背後を襲うことの危険性を警鐘した。 曹休は揚州に居るのだから、朱然が曹休の背後を襲うのは無理であろう。この曹休とは曹休軍のことである。 このことからも荊州の魏軍は曹休の都督下にあり、司馬懿は曹休の軍を督しているだけであって、都督荊州諸軍事ではないことがわかるであろう。陳景雲の説は成り立たない。 魏の太和二年の二道征呉(いわゆる石亭の戦い)のときの曹休の官職は 使持節、大司馬、領揚州牧、都督兗州青州徐州荊州豫州五州諸軍事、長平侯であろう。 いづれにせよ孫権は事前に裏切り者がでることを予見していたのである。 しかし、司馬懿のせいで曹休が破れたというのは三國志では書けない話なので、なんだかよくわからない話になってしまったのであろう。 ■三國志呉書諸葛瑾伝 「近得伯言表,以為曹丕已死,毒亂之民,當望旌瓦解,而更靜然。聞皆選用忠良,寬刑罰,布恩惠,薄賦省役,以悅民心,其患更深於操時。孤以為不然。操之所行,其惟殺伐小為過差,及離閒人骨肉,以為酷耳。至於御將,自古少有。丕之於操,萬不及也。今叡之不如丕,猶丕不如操也。其所以務崇小惠,必以其父新死,自度衰微,恐困苦之民一朝崩沮,故彊屈曲以求民心,欲以自安住耳,寧是興隆之漸邪!聞任陳長文、曹子丹輩,或文人諸生,或宗室戚臣,寧能御雄才虎將以制天下乎?夫威柄不專,則其事乖錯,如昔張耳、陳餘,非不敦睦,至於秉勢,自還相賊,乃事理使然也。又長文之徒,昔所以能守善者,以操笮其頭,畏操威嚴,故竭心盡意,不敢為非耳。逮丕繼業,年已長大,承操之後,以恩情加之,用能感義。今叡幼弱,隨人東西,此曹等輩,必當因此弄巧行態,阿黨比周,各助所附。如此之日,姦讒並起,更相陷懟,轉成嫌貳。一爾已往,羣下爭利,主幼不御,其為敗也焉得久乎?所以知其然者,自古至今,安有四五人把持刑柄,而不離刺轉相蹄齧者也!彊當陵弱,弱當求援,此亂亡之道也。子瑜,卿但側耳聽之,伯言常長於計校,恐此一事小短也。」 ■三國志蜀書李嚴伝 於是亮表平曰:「自先帝崩後,平所在治家,尚為小惠,安身求名,無憂國之事。臣當北出,欲得平兵以鎮漢中,平窮難縱橫,無有來意,而求以五郡為巴州刺史。去年臣欲西征,欲令平主督漢中,平說司馬懿等開府辟召。臣知平鄙情,欲因行之際偪臣取利也,是以表平子豐督主江州,隆崇其遇,以取一時之務。平至之日,都委諸事,羣臣上下皆怪臣待平之厚也。正以大事未定,漢室傾危,伐平之短,莫若褒之。然謂平情在於榮利而已,不意平心顛倒乃爾。若事稽留,將致禍敗,是臣不敏,言多增咎。」
三国志こばなし集(三国時代編)@omikanboy3594

「陳羣」のような連中がこれまで正道だったのも、曹操が怖くてひたすら仕事に励むしかなかったからだ。曹丕は威厳と恩情を共に与える事ができたが、曹叡では無理だ。陳羣一味は必ずやこの機を利用し互いに派閥をつくりあって、それぞれが仲間の利益を計るに違いない… ここ「陳羣」じゃなくて「司馬…

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山口宏(脚本)
山口宏(脚本)@Yamayama800·
ボトムズ盛り上がってるんで、未見の人は、自分の脚本デビュー作、メロウリンクも機会あれば見てケロ見てケロ。もう38年前かぁ…… 機甲猟兵メロウリンク amazon.co.jp/gp/video/detai…
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松浦 桀
松浦 桀@HAMLABI3594·
郫は成都に隣接する県。 邸閣は軍糧の貯蔵庫。 鄧芝は邸閣督として軍糧管理をした。  蔣氏譜に拠れば鄧芝の娘は蔣琬の弟の蔣瑜(しょうゆ。兄の蔣琬のあざなは公琰。弟の蔣瑜のあざなも公+玉偏の漢字であろう。)に嫁いでいる。蔣瑜は零陵に残り父の蔣昕(しょうきん)の後を継いだ。  晋書に拠れば蜀の滅亡後の268年に羅憲は司馬炎に諸葛亮、蔣琬、費禕の子孫を推挙したが蔣琬の子孫だけは出仕の記録がない。  三国志に拠れば蔣琬の長子の蔣斌(しょうひん)と次子の蔣顯(しょうけん)は264年の鍾会の乱で絶命している。おそらく姜維や張翼らと行動を共にしていたのであろう。  蔣氏譜に拠れば蔣斌の妻である費禕の娘が生んだ長子の蔣珩(しょうこう)は生存していた。羅憲が推挙した蔣琬の子孫とは蔣珩であろう。275年に蔣琬の妻は蔣珩らを引き連れて蔣瑜のもとに亡命した。蔣瑜は県侯であったため、将軍として軍功を重ねていたと推測される。呉は蔣珩を広州の都督としたとあるが、これは蔣瑜の権限を継承したのであろう。
松浦 桀 tweet media
看三國@syansyan2023

【蜀漢最後の『安定の要石』:門番から外交のカリスマへ――鄧芝、いかにして弁舌ひとつで国家を四十年延命させたか】 成都の武侯祠にある文臣廊に、鄧芝の像は静かに佇んでいる。その地位は蒋琬や費禕に次ぐものだが、蜀漢後期のこの大黒柱に対する一般的な記憶は、往々にして曖昧だ。「火焼連営」の凄惨さや、诸葛亮の「七縦七禽」の伝説は語られても、あの壊滅的な敗戦の後、誰が単身呉に乗り込み、蜀漢を崩壊の淵から引き戻したのかは忘れられがちである。 鄧芝の人生は、まさに「大器晩成」の歴史だ。彼は後漢の開国元勲・鄧禹の後裔という名門の出ながら、そのスタート地点は驚くほど低かった。郫県という辺境の地で、桟道の管理人(邸閣督)として働く小役人に過ぎなかったのだ。もし劉備が微行(密かに視察)で彼と言葉を交わさなかったなら、彼は一生、山間部で行き交う隊商を数えるだけの下級官吏で終わっていただろう。 史書によれば、劉備は鄧芝と対談した後、「大いにその才に驚いた」と記されている。これは単なる社交辞令ではない。当時の蜀漢は、関羽の荊州喪失と劉備の猇亭の敗北という連鎖的打撃を受け、精鋭を喪失。国内では反乱が頻発し、魏は虎視眈々と機会を窺い、呉とは敵対関係にあった。诸葛亮が「呉との関係修復」に頭を悩ませる中、満朝の文武は不可能と考えていたが、鄧芝ただ一人が立ち上がり、核心を突いた。「大王(孫権)がもし魏に臣従すれば、魏は必ず朝貢を求め、さらには人質として太子(孫登)を差し出すよう迫るでしょう。拒否すれば、魏は討伐の名目を得て攻め込みます。そうなれば蜀軍も東下し、呉の滅亡は必至です」 これは外交辞令ではなく、赤裸々な地政学の計算だった。 鄧芝の呉への使節派遣は、極めてハイリスクな賭けであった。孫権は当時、魏の文帝・曹丕に臣従しつつも蜀漢と示しをつける「二股外交」を行っていた。猜疑心が強く、皮肉屋として知られるこの江東の主に対し、鄧芝は驚くべき精神力を見せた。伝統的な使節のようにへつらうことなく、孫権の立場に立って「生存の計算書」を提示したのだ。魏に降れば滅び、蜀と組めば鼎立が可能になると。 最も劇的なのは、孫権が迷いを見せた瞬間のやり取りだ。「もし大王が蜀漢を遠く離れた辺境と見なし、魏に接近したいのであれば、それも止めはしません。しかし魏が大王に上京を求め、太子を人質に取れと迫った時、それを拒むならば魏は必ず攻め込みます。その時、蜀軍が川を下ってくれば、江南の地はもはや大王のものではなくなるでしょう」 この言葉は孫権の急所に突き刺さった。実際、曹丕は再三にわたり孫権に人質を要求しており、孫権はそれを強く嫌っていたのだ。鄧芝はその心理を鋭く突き、孫権に蜀漢との同盟が唯一の生き残り策であると悟らせた。最終的に孫権は「孤(寡人)は蜀と連合することにした。卿の言う通りだ」と断言し、「両国を和合させられるのは、鄧芝をおいて他にいない」とまで絶賛した。 外交面での華々しい活躍以外にも、鄧芝の軍事才能は過小評価されがちだ。第一次北伐では、趙雲と共に箕谷(きこく)で陽動作戦を展開し、魏の曹真の主力を牽制した。街亭の敗北で全軍が崩壊寸前の中、趙雲と鄧芝の部隊だけが「軍を収めて固く守り、大敗を免れた」。撤退時も、軍需物資を一つも捨てることなく、組織を維持したまま撤退した。劣勢の中で軍の崩壊を防ぐこの能力こそが、名将の試金石である。 晩年、鄧芝は江州の都督として十数年間鎮守した。「蜀道は難し、青天を上るより難し」と詠われた時代、江州は蜀と呉を繋ぐ喉元だった。诸葛亮が鄧芝を配置したのは、その武勇だけでなく、孫権との個人的な信頼関係を重んじたためだ。事実、鄧芝が在任中、国境は平穏無事だったという。彼は岩に矢を射て入れるほどの剛毅な人物でもあった。 しかし、人に完璧な人はいない。『三国志』は鄧芝について「性格が剛毅で簡素、感情に飾り気がない」と記している。兵士への接し方は厳格を極め、訓練以外では非情とも思える冷酷さがあった。だが、それこそが乱世の将に求められた資質なのだ。資源が枯渇する蜀漢後期、鉄の腕でなければ軍の戦闘力を維持できなかった。 紀元251年、鄧芝は江州の任所で病没した。遺産と呼べるものはなく、書籍とわずかな衣服だけが残されていた。彼はその生涯を通じて诸葛亮の「呉と連合し魏に抗う」戦略を実行し、蜀漢に四十年の息継ぎの時間を与えたのである。 三国志を振り返ると、我々はあまりにも多くの悲劇的英雄を記憶してきた。しかし、出自が微々たるものでありながら、人間性を見抜く知恵と揺るぎない実行力で、国の最も暗い時期に力強く舵を切り、最後まで生き抜いた実務家こそが、真の時代の支柱と言えるだろう。彼は演義の主役ではないが、歴史の歯車を回す上で不可欠な「キーパーソン」だったのである。

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