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【外科医の思い出】1/3
外科医の第一線から離れると大学教授に正式に打診した時「君みたいな外科医を一人作るのは本当に大変なんだよ」と予想に反して悲哀のある様子で返答され、拍子抜けしたことを覚えている。
なんでこんなことになったのかな と思いながらも、ようやく外科医でなくなることへの開放感や安堵感が交錯した。
パワハラな世界は嫌悪したが、その分野で世界一の成績を出そうとする教授や医局は嫌いではなかった。世界や日本のガイドラインを作っていく姿は輝いていたし、美しい手術、所作というのも大学で初めて目の当たりにした。海外で仕事をしたことはないが、細部に及ぶ仕事の丁寧さに、日本の技術を実感した。当時大リーグでイチローの活躍が凄まじかったが、同じカテゴリーの生き様を側で見ている感覚もあり、普段の仕事も誇らしかった。
おそらく同年代の中では最も多くの手術を初期研修医からやらせてもらっていた。膵頭十二指腸切除(通称:PD)という外科医として集大成のような大手術の初執刀も5年目だった。外科、消化器外科指導医、内視鏡外科技術認定医も最短で取得させてもらい、大学の人事にも従順に従ってきたのだから、教授の言うこともよくわかる。
ただ、当時から外科医がプロ野球選手ほど給料をもらえないことが純粋に疑問だったし、大学教授の給料が市中病院の後期研修医ほどと知って、絶望的な気持ちになっていた。
人生が3回あってほしい(一回はこのまま、もう一回は外科医以外、もう一回は医師以外)と本気で思っていた。今死んだら一生後悔するだろうなと思いながら、精神的に病まないように、愛おしい子どもたちを毎朝目に焼き付けて仕事に向かった。
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