松菊木戸孝允

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@O99xYb

ペンネーム有吉春野 桂小五郎/木戸孝允は、民衆の側の視点から国家の理念と政治を考えた志士的な政治家です。統治者の視点に立つ官僚型政治家であった大久保利通と思想や資質が異なる。この拙著は、別人の如く評価される桂小五郎/木戸孝允の生涯とその思想を統一的に解明しようとしたもの。 有吉春野「桂小五郎と木戸孝允 第1〜3巻」

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有吉春野「桂小五郎と木戸孝允 第1巻〜第3巻」郁朋社 左上 1巻 背表紙 左下 1巻 明治5年11月頃パリ、大久保利通と留学生 右上 2巻 明治6年4月明治天皇と陸軍大将西郷隆盛 右下 3巻 明治9年東京府地図に木戸孝允宅、大久保利     通宅、大久保暗殺の場所等を書入れたもの
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小五郎の思想と政策が入っているのではないだろうか。 あるいは、長州藩の政府・民衆の共治の経験が、明治元年のまだ西欧を知る前の木戸が、君民共治の理念を五箇条の御誓文と宸翰に込めた理由ではないだろうか。 明治元年に君民共治を唱えることは、神武天皇いらい、初めてのことなのである。
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明治元年、木戸孝允は五箇条の御誓文と同時に天皇の宸翰をあげたが、そこには天皇とじんみんが協同して政治を行うべきことがうたわれている。 木戸は、西欧を見る前に、君民共治の理念を唱えた。 このことからすると、長州藩が人民に政府と協同することを呼びかけ、実際に実行されたについては、
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長州藩は幕府からの征討に備え、人民に対し、藩のこれまでの行動ー無実であること、今まさに戦争をしかけられようとしていること、藩政府と協同して決死の覚悟を持って戦うことを呼びかけた。 君主と政府だけの戦争ではなく、人民も共に立ち上がることを求めた。
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小五郎は出石藩への亡命から慶應元年4月帰藩し、5月7日には家老の下の参謀である「用談役」に単身で就任した。その下に「用所役ー軍政担当」として大村益次郎が就任。すぐに奇兵隊も属する「諸隊」が400人増員された。小五郎と大村は、諸隊・奇兵隊を軍の主力に育成する。
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@konomininaritai 奇兵隊をつぶしたのは明治3年の脱走事件で鎮圧の指揮官となった木戸孝允です。 彼はそれまでに私財を数百両投じて奇兵隊の困窮を救おうとしますが、救えない。彼は罪を自覚。 士族に対し授産事業と子弟の教育をすすめ、大久保の過酷な士族解体策に抵抗し、政府の中で孤立していきます。
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蓮實ルネ@明治革命奇談 /夢十二夜
これがまた悲しいですね。ここまでみないと歴史とは言えませんね…。
松菊木戸孝允@O99xYb

@Choper544293164 そうですね。長州藩で奇兵隊を正規軍に編成し主力部隊としたことについては桂小五郎の大きな政策がありました。 維新により奇兵隊は長州藩にとって重荷となります。朝廷は兵力の削減を要求します。 奇兵隊は言わば悲劇的な局面を迎えます。

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@Choper544293164 そうですね。長州藩で奇兵隊を正規軍に編成し主力部隊としたことについては桂小五郎の大きな政策がありました。 維新により奇兵隊は長州藩にとって重荷となります。朝廷は兵力の削減を要求します。 奇兵隊は言わば悲劇的な局面を迎えます。
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幕末インサイト
幕末インサイト@Choper544293164·
@O99xYb すごく興味深くポストを拝見しました。 奇兵隊というと高杉晋作や維新の原動力という印象が強いですが、実際には各地で戦い、故郷へ戻れなかった名もなき隊士たちがいたのですね。 東北や函館に残る墓を見ると、維新の裏にあった犠牲まで感じます。
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私の御先祖の一人は山口市に住む普通の町人でしたが、奇兵隊に入っていたそうです。家には明治大正の頃まで、なまくら刀があったらしい。 (明治9年の廃刀令は、帯刀を禁止するもので、所有を禁止するものではない)。 写真の奇兵隊員は、なかなかのつらがまえですが、私の御先祖ではないようです。
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高杉がつくり、町人百姓が入隊した奇兵隊とは、遠い、うそかほんとか分からなくなった過去の事ではなく、現実にあった血しぶきの舞う歴史なのです。
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私の御先祖は、子孫の有り様からすると、軟弱系だったのではないかと…😅 奇兵隊は、鳥羽伏見戦争、東北での戊辰戦争、函館戦争まで戦い、犠牲を払いました。 当時遺体を遠い故郷まで運ぶことは不可能だったので、奇兵隊員の墓は東北各地にも函館にも残っているようです。
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左 明治2年8月頃奇兵隊 戊辰戦争から凱旋し下関で撮影したもの 右 慶應2年夏の第二次征長戦争で、下関海峡を渡って小倉藩に攻め込み、そこで戦死した奇兵隊院の墓
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1859年安政5年、松陰は幕府から捕縛を命じられ、この道を、網をかけた駕籠に乗せられて護送されていきました。 松陰はあの肖像画のお陰でトシとっているように見えますが、29歳で処刑された。熱血の純粋の信念の政治家であり学者でした。
山城Q|体験構造研究者@yamajiro_q

山口県 萩往還 一貫石 この昔話には、山口県民性が非常に出ていると思う。礼儀正しい人が多い。街中、山中、すれ違い際に「あいさつ率」「会釈率」が非常に高い。車線の譲り合いとかも。ある。

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「真の闇」を経験した人は今では少ないでしょうが、月も星も無い山の中は、自分の手のひらも見えないものです。 その代わり、当時の昼間の空は、目に突き刺さるような金属的に青い空だったと思います。 道中の宿のある所から、先の宿のある所へ、きちんと歩くことは重要だったでしょうね。
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小五郎が「この時」に江戸へ行かずペリー来航を経験しなかったら、幕末の志士・明治の中央政府の政治家、桂小五郎/木戸孝允は生まれていなかったのではないでしょうか。 当時はもちろん街灯もなく、山中には人家もなかった。
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萩往還は萩から防府・三田尻港に至る、江戸時代の重要路ですね。現在は多くが県道になっていますが、一部は廃道になっているようです。写真は復刻整備されたのではないかと思います。 嘉永5年1852年、小五郎はこの道を歩いて江戸へ向かいます。ペリー来航の1年前。
山城Q|体験構造研究者@yamajiro_q

岐阜県の岩村城じゃないよ 山口県の萩往還です。締めは瑠璃光寺訪問で感動は爆上がりです。

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下関は、高杉が参謀長兼海陸軍総督で、山県有朋が参謀。鳥尾小弥太が参軍し、主力は奇兵隊。 高杉はこの海戦の最終の頃結核が悪化して前線を離れる。 海戦をイギリス軍艦やフランス軍艦が「見学」しにやってきた。 外国軍が、他国の戦争を見学しにやってくることはあったらしい。
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大村益次郎はまだ全軍の総指揮を執るまではいかず、石州口の参謀長で、総督は清末藩主。杉孫七郎らが参軍している。 大村は近代的戦術で、岩見銀山まで手に入れた。 この目覚ましい戦略戦術を高く評価して、維新政府に招かれた。
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左上 長州再討戦争の時の幕府軍の陣容 左下 坂本龍馬の小五郎への書簡、下関また戦争と弟(僕)思うに、やじ馬さしてくれまいかと早々道を急  ぎ」 右上 大島口の高杉のゲリラ海戦の錦絵 右下 Queen  We Will Rock You 歌詞和訳
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