意識の高いデブ
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CoCo壱を愛するすべてのデブに、冷静かつ重要なお知らせがあります。明日発売の「CURRY HOUSE CoCo壱番屋 FAN BOOK やっぱりココイチ!」、これは感情ではなく合理性の話としてガチでおすすめです。
特集の一つでもある裏技トッピング徹底ガイドは、単なる読み物ではありません。日々の選択ミス(揚げ物過多、ルー不足、トッピング順序の甘さ)を是正してくれる、いわばデブの意思決定を最適化する資料になるかもしれない。これだけでも十分に元は取れます。
さらに特筆すべきは、1年間、何度でも飲食代が10%OFFになるパスポートが付属している点。
仮に年間100回CoCo壱に通うデブを想定します。このレベルのデブであれば、1食あたりの会計は慎ましく見積もっても3,000円超。つまり1回につき約300円の削減。年間で約3万円の還元です。
本の価格を考えれば、リターンは30倍以上。これはもはやグルメ本ではなく、キャッシュフロー改善型の金融商品と言っても過言ではありません。
唯一の欠点を挙げるとすれば、表紙のパリパリチキンの半分にルーがかかっている点。あれは‘パリパリ“チキンという名を汚す行為なので全く相容れません。それ以外は、極めて完成度が高い一冊になると思われます。
CoCo壱の店舗、Amazonや楽天ブックス、全国の書店で購入できますのでこの機会に是非。

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新宿や池袋なら達成できる可能性があります👍

意識の高いデブ@e_debu
「一富士 二鷹 三茄子」は初夢で見ると縁起が良いとされていますが、デブ界では「一蘭 二郎 三田製麺」の順で新年に食べると縁起が良いと言われています。
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親子丼という料理の、残酷なまでの美しさについて今日は語りたい。
鶏と卵を一つの器に閉じ込める。構図としてはこれ以上ない悲劇のはずなのに、俺たちはそれを親子なんていう睦まじい名前で呼び、あろうことか美味しくいただいている。あの優しい出汁の香りの裏側に隠された狂気に、誰もが気づかないふりをしている。
…とか言いつつ、俺は普通に親子丼が好きだ。
それも、かなり好きな部類に入る。昼飯に迷ったら、高確率で選んでしまう。 親子丼の本当の怖さは、その残酷さにあるのではない。それを一切問題にせず、何事もなかったように喉を通せる、自身の順応力の方にある。
鶏と卵。親と子。 同じ鍋で煮られ、同じ丼に盛られ、同時に口に運ばれる。 冷静に言語化すれば、これほどエグい構図もない。だが「親子丼」という四文字に戻った瞬間、俺の思考は止まる。
名前というのは、つくづく不思議だ。 「血縁煮込み丼」だったら、たぶん箸が止まる。 ましてや「一家惨殺丼」なんてお品書きにあれば、注文する勇気はないだろう。 それが「親子丼」になった途端、なぜか胃に優しそうな、慈愛に満ちた料理に見えてくる。
実際、親子丼はどこまでも優しい。 具材は柔らかく、脂が自己主張するわけでもない。
だからだろうか、食べている最中、俺の思考はいつも中途半端に宙に浮く。 例えば、七味だ。
「どこかで七味を振って、味を引き締めなきゃな」と頭の片隅で思いつつ、箸は止まらない。かけるタイミングを計っているようでいて、実は何も考えていない。出汁の優しさに思考を溶かされているうちに、気づけば完食している。
結局、味変すらさせてもらえない。 完成されすぎていて、素人が手を加える隙がない。というより、手を加えることすら面倒にさせる「ぬるま湯」のような魔力が、あの丼にはある。
食べていると、途中で鶏肉が先になくなり卵とタレと米だけが残る、あの微妙な余韻。 あれを「まあ、こういうものか」と受け入れるか、「卵丼でも十分うまいな」と気分を上げるかでその日の心境までわかる気がしている。
食べ終わったあと、特に語ることはない。 「美味しかった」以上の感想も出てこない。 わざわざ誰かに報告するようなことでもない。 それでも、翌日にはまた食べたくなる。そんな料理だ。
たぶん親子丼は、 残酷さも、違和感も、罪悪感も、全部出汁で薄めてしまった料理なのだ。
だから俺たちは今日も、何事もなかったような顔でそれを食べる。 親と子を一緒に閉じ込めた丼を、 「優しい味だな」なんて呟きながら。
本当に怖いのは、料理ではない。
それを何の違和感もなく受け入れてしまう、自身の方なんだろう。 #デ文学

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「脂っこいものは控えましょう」
そう言われるたび、俺は思う。
脂とは、単なる栄養ではない。それは、生命の実感であり、食における情緒だ。世間は野菜を讃える。だが、デブ界には独自の真理がある。
牛脂、ラード、鶏油。
これぞ俺たちの三種の神器である。
健康志向の風が吹き荒れるこの時代、「野菜を食べよう」「油を減らそう」といった言葉が当然のように並ぶ。確かに、野菜は身体に良い面もあるだろう。腸を整え、体を軽くし、血を澄ませる。
だが、脂は心を癒す。
野菜は体に良い、脂は心に良い。
これがデブ哲学の根幹だ。
キャベツの千切りも悪くない。だが、その隣にトンカツがある瞬間、人生は意味を取り戻す。サラダはバランスを取るためにあるが、脂は生きる理由を思い出させる。
つまり、野菜が整えるなら、脂は支える。どちらも人を健やかにするが、方向が違うだけだ。
まず、牛脂。
肉を焼く前に鍋へ落とすあの黒い結晶。焦げる寸前の甘い香りが、胃袋の奥でスイッチを入れる。
牛脂が溶ける瞬間、肉の表情が変わる。焼き目が音を立て、時間がゆっくり伸びていく。人はあの香りの前では、理性を保てない。幸福とは、理屈ではなく香りの中にある。牛脂はその証拠だ。
次に、ラード。
豚の恵みを凝縮した白い宝石。熱した中華鍋に落とせば、瞬時に世界が変わる。餃子は立体感を増し、炒飯は音を奏でる。ラードは主役を引き立てる黒子でありながら、すべてをまとめ上げる監督でもある。サラダ油には真似できない厚みがある。
脂の層が食材を包み、味の輪郭を整える。
それはまるで、料理全体を守る膜のような存在だ。
そして鶏油(チーユ)。
ラードの豪胆さとも、牛脂の重厚さとも違う。鶏油は静かな優しさを持つ。スープの表面で光る一滴が、料理に命を吹き込む。ラーメンにひとさじ加えるだけで、香りに奥行きが生まれ、麺がしなやかに変わる。鶏油は脇役のように見えて、実は全体の呼吸を整える存在だ。
穏やかでありながら、確実に記憶に残る。
これを知る者は、もはやただの食いしん坊ではない。
この三つの脂を取り入れた料理が揃うと、食卓は完成に近づく。白米はその受け皿であり、油の語り部だ。
脂を吸った食材と米粒が絡み合い幸福の粒子になる。噛むたびに体が熱を帯び、心が柔らかくなる。数値上は過剰摂取かもしれない。だが、感情的には適正幸福量である。
「脂は悪者だ」
そういう人たちに俺はこう返したい。脂は心の保湿剤である。乾いた毎日に、ほんの一滴の潤いを与えてくれる。人間関係も、人生も、脂分が足りないとギスギスする。油断ではなく、油愛が必要なのだ。
食べるとは、生きること。そして、脂を愛するとは、自分を許すことだ。野菜が体を整え、脂が心を癒す。どちらも欠けては生きていけない。
だから今日も俺は迷わず言う。
牛脂、ラード、鶏油。これぞデブ界の三種の神器である。
身体と心、その両方を満たすものは、いつだって脂の側にある。 #デ文学

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