

寿司を忘れよ、ラーメンを忘れよ、と君は言う。そして、油にまみれた一片の肉塊に、日本の真実が宿るとでも言いたげだ。 それが黄色と白の紙袋に包まれ、レジの上で無造作に受け渡されるとき、異国の旅人はついに日本を理解した気になる。そういう物語だろう。 しかし、その理解はあまりに軽い。骨のない鶏肉のように、抵抗も構造もなく、ただ歯に優しく、記憶にも優しい。 確かに、二十五億個という数字は雄弁だ。一万六千余の店舗に張り巡らされた網は、もはや神経のようにこの国を覆っている。だが、その神経が感じ取っているのは、果たして文化なのか、それとも単なる温度と油の刺激に過ぎぬのか。 旅人はしばしば、最も手近なものを本質と呼びたがる。疲労と空腹が、その判断をいっそう安易にする。ファミチキはその隙に入り込み、あたかも日本の核心であるかのように振る舞う。だが、日本は、そんなに簡単に紙袋へ収まるものではない。 むしろ私は問いたい。君が忘れよと言った寿司やラーメンのほうが、よほど執拗に、この国の時間と労働と美意識を背負ってはいないか、と。 ファミチキは確かに美味い。だがそれは、勝利ではなく、むしろ敗北の味に近い。あらゆるものを均質にし、誰にでも理解できる形に整えた果ての、静かな諦念。そのやわらかさの中に、私はわずかな恐怖すら感じるのだ。































