なん猫さん
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【売れてる個人VTuberというのが必ず幻級になってしまう理由】
「個人VTuberで売れる」という夢がある。
企業に入らなくても、
大きな後ろ盾がなくても、
自分の声とキャラと配信だけで人気になれる。
その物語は、たしかに美しい。
何もない場所に一人で火を灯して、その光だけで人を集めていくような夢がある。
でも残酷なことに、
売れた瞬間から、その人は“ただの個人”ではいられなくなる。
なぜなら、人気には重力があるからだ。
人が集まる。
時間が集まる。
感情が集まる。
そして、お金が集まる。
スパチャ、メンシ、グッズ、ボイス、案件、イベント、ライブ、音楽。
人気のあるVTuberには、ファンのお金が集まる。
そしてファンのお金が集まる場所には、企業のお金も集まる。
これは夢の話ではない。
資本主義の話だ。
儲かる市場には、大資本が入ってくる。
伸びている才能には、人が寄ってくる。
お金になるIPには、仕組みが作られる。
資本主義の引力に逆らうことは難しい。
しかも残酷なのは、お金を集中させるのが企業だけではないことだ。
ファンもまた、特定の才能にお金を集中させる。
みんなを平等に応援するわけではない。
本当に好きな人に投げる。
伸びてほしい人に使う。
心を動かされた人に課金する。
それは悪いことではない。
でも結果として、お金は一部の才能に偏っていく。
声が強い人。
キャラが強い人。
関係性を作れる人。
物語を背負える人。
毎日見たくなる人。
お金を使いたくなる人。
そういう人に、ファンの時間も感情もお金も集まる。
最初は小さな星だったものが、
ファンの熱量を集め、企業の視線を集め、制作リソースを集め、
いつの間にか大きな重力を持ちはじめる。
すると、次の差が生まれる。
いいイラストが作れる。
いいLive2Dにできる。
いいMVが出せる。
いいグッズが作れる。
いいスタッフを入れられる。
いい案件が来る。
いいイベントができる。
人気があるから、環境が良くなる。
環境が良くなるから、さらに人気が出る。
一度この循環に入った人は、どんどん強くなる。
ここが、個人VTuberという夢の残酷なところだと思う。
「個人VTuber」という言葉には、どこか公平な響きがある。
誰でも始められる。
誰でも伸びる可能性がある。
企業勢じゃなくても勝てるかもしれない。
たしかに、入口は開かれている。
でも、入口が開かれていることと、出口が平等であることは違う。
才能が光れば光るほど、そこに資本が降ってくる。
雨のように全体へ降るのではない。
磁石に吸い寄せられる砂鉄のように、特定の才能へ集中していく。
そして、売れている個人VTuberは、だんだん個人ではなくなっていく。
最初は一人で配信し、サムネを作り、告知し、企画し、ファン対応もしていたかもしれない。
でも売れたら、グッズ、案件、契約、動画、音楽、ライブ、税金、炎上リスク、スケジュール管理まで必要になる。
個人という小さな器に、人気という液体が注がれ続ける。
最初は受け止められる。
でも、あるラインを超えると溢れる。
だから、誰かに頼む。
編集者、デザイナー、イラストレーター、作曲家、マネージャー、税理士、弁護士、案件窓口。
気づけば、本人の周りにはチームができる。
外から見ると「個人VTuber」。
でも中身は、もう小さな事務所に近い。
これはズルではない。
売れた人が活動を続けるためには必要なことだ。
ただ、その時点で「個人VTuber」という夢は少し変質する。
個人で始めることはできる。
個人の名前で売れることもできる。
事務所に所属しないまま活動することもできる。
でも、
売れたまま、完全な個人であり続けることはかなり難しい。
売れるということは、事業になるということ。
事業になるということは、人とお金が必要になるということ。
人とお金が入るということは、純粋な個人ではなくなるということ。
だから「売れてる個人VTuber」は、どうしても幻級になる。
正確に言うなら、売れている個人VTuberとは、
個人の顔をした、最小サイズのVTuber事業なのだと思う。
夢があるからこそ、ファンのお金も企業のお金も集中する。
そして最終的に、“個人”という形を保つことが難しくなる。
日本語
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