伊藤弘了『教養としての映画』

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伊藤弘了『教養としての映画』

伊藤弘了『教養としての映画』

@hitoh21

映画研究者=批評家。

第八芸術研究所 Katılım Temmuz 2013
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伊藤弘了『教養としての映画』
映画入門の本を書きました。想定している主要な読者はビジネスパーソンですが、最近映画を見始めた人から筋金入りのシネフィルまで、映画に興味のあるすべての人に役立つ内容になったと自負しています。映画研究者=批評家として持てる力をすべて注ぎ込んだ自信作です。amzn.to/3yzaU4i
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伊藤弘了『教養としての映画』
娘と一緒に庭にまいたヒマワリが発芽した。2メートルくらいまで育つ品種らしく(支柱がいる)、これから娘や僕の背丈を追い抜いていくのを楽しみにお世話していきたい。
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友だちの飼い犬の名前を忘れてしまった娘が「ずいぶん前のことだから……」と言っていたのがおもしろかった。「4歳は4歳なんだけどね」と、聞いたのが4歳になってからであることは認識している様子。つまりせいぜい数ヶ月前の話。どこでそんな語彙を身につけたんだろうか。
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『美しき結婚』のロメールの代表作のひとつに『冬物語』(1992年)があって、『冬物語』と言えば一般には(劇中にも登場する)シェイクスピアの同名の戯曲のほうが有名だろうけれど、これは「再婚」がわりと重要なモチーフになっており、『プラダ2』でミランダの再婚相手を演じているケネス・ブラナーはシェイクスピア俳優として知られている。というようなことまで書こうかと思ったけれど、ノイズになると思って最終的には省いた。ここで供養しておく。
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伊藤弘了『教養としての映画』
原稿段階でつけていた小見出しは「離婚者たち」「失敗者たち」「再婚者たち」「美しき再婚」で(公開版からは跡形もなく消し飛んだけれどまあそういうものなので仕方ない)、前三つは『冒険者たち』(ロベール・アンリコ監督、1967年)、最後のはロメールの『美しき結婚』(1982年)をもじったもの。
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伊藤弘了『教養としての映画』@hitoh21

『プラダを着た悪魔2』を“離婚”と“再婚”の物語として読み解く映画評を書きました。 mainichi.jp/articles/20260…

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ミチル
ミチル@michirukkb·
とても楽しく読ませていただきました この視点からまた観たくなる 映画の推し事:ミランダもアンディも、サシャも……高離婚率「プラダを着た悪魔2」は美しき再婚の物語だ | 毎日新聞 mainichi.jp/articles/20260…
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起床時から怪しいとは思っていたけれど、5限の授業後に明確にギックリ腰の症状を呈し始め、歩くことはおろか、たんに立っていたり座っていたりすることすらままならない状態に陥っている。気づけば不惑の年が近づいており、今後こういうことは増えていくのだろう。
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「コート投げ」は、ミランダの傍若無人ぶりを効果的に印象づけるとともに、映画後半には投げる対象をエミリーのデスクに変えることでアンディの仕事ぶりを認めるようになったことを暗に示しつつ、さらに覆い隠されたデスクトップ上のパリの凱旋門がエミリーの宿願不成就を伝えていて、非常に経済的。
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『プラダを着た悪魔2』のミランダが自らコートをハンガーにかけているシーンで、多くの観客の脳内には1作目の「コート投げ」のシーンがフラッシュバックすることになる。シリーズものの強みを巧みに活かしつつ、同時に時代の変化を描いてもいて、秀逸な描写だったと思う。
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ひとシネマ
ひとシネマ@hitocinema·
ミランダもアンディも、サシャも……高離婚率「プラダを着た悪魔2」は美しき再婚の物語だ mainichi.jp/articles/20260… 大ヒット映画を読み解きます #プラダを着た悪魔2 #20世紀スタジオ
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みんなが好き勝手なことを言っていい社会では、当然ながらその分だけ嫌な思いをする機会も増える。それでも逆(検閲や言論統制が幅を利かせる社会)よりはずっとマシだろう。自由にはつねにポジティブとネガティブの両面があり、後者を否定すれば自ずと前者も消え去る。みんなで嫌な思いをしよう。
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自分の主張の正当性を生成AIの判断に求める行為は、僕の感覚だとあまりに情けないので、少なくとも僕がそれをやることはない。合っているかどうかは究極的にはどうでもいい。主張したいことがあるなら自分の信念に基づいて展開すればいい。
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ある表現によって生じる効果はたやすく作り手の意図を裏切る(「人を感動させたい」という意図がじっさいに実を結ぶことは稀である)。あらゆる表現において意図と効果は必ず齟齬をきたす。
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「賢い坊(ぼん)やなぁ」は文字通りにも捉えられる一方「いけすかないマセガキやな」を含意する皮肉にもなるし、0か100かではなく、「年齢の割にしっかりしていて感心する」と「年齢に不相応に大人びていて気色悪い」という二つの感情は同時に成立する(しばしば発話者自身にもその割合は不明)。
伊藤弘了『教養としての映画』@hitoh21

たとえば「美しい」は褒め言葉にも悪口にもなる。「美しい日本」は、しかるべき文脈を与えれば「虚飾に塗れた軽薄な日本」の言い換えとして、つまり悪口として用いることもできる。

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たとえば「美しい」は褒め言葉にも悪口にもなる。「美しい日本」は、しかるべき文脈を与えれば「虚飾に塗れた軽薄な日本」の言い換えとして、つまり悪口として用いることもできる。
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どう読んでも1ミリも褒めていない映画評が流れてきたけれど、それを「褒めている」と受け取っている人がいるようで、言葉の難しさを感じている(僕自身はかつてどう読んでもめちゃくちゃ褒めているだけの映画評がなぜか酷評している扱いされて燃やされた経験がある)。
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