甲斐 毅彦(KAI TAKEHIKO)
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甲斐 毅彦(KAI TAKEHIKO)
@moerutoukon2
記者。所有資格は行政書士、総合旅行業務取扱管理者、英検準1級など。移住者と連帯する全国ネットワーク会員。外国人人権法連絡会会員。特技は韓国語。立教大山岳部OB(1992年にヒマラヤ遠征)。合気道初段。ブラジリアン柔術青帯、空手修行中。あくまで個人としてツイートします。

中公新書『維摩(ゆいま)経とは何か――空・不二・中道から読むブッダの思想』(5月刊)の編集に取り組んでいる最中に中道改革連合が発足し、「中道」という語が話題になりました。誤解され、仏教用語だという事で揶揄する人もいて、いたたまれず新聞に寄稿しました。参考にして頂ければ幸いです。


「こころの科学」という雑誌に「世界のADHDグレーゾーンをめぐる旅」というエッセイを寄稿しました。

「冒険・探検」というメディア 戦後日本の「アドベンチャー」はどう消費されたか 高井昌吏/法律文化社 単行本:A5 縦210mm 横148mm 310ページ 未知なる世界を伝えてくれた日本の「冒険・探検」は、どのように「消費」されてきたのか? 戦前・戦後の学術探検から、堀江謙一、三浦雄一郎、植村直己、角幡唯介ら冒険家・探検家と呼ばれた人たちの言説とそれを伝えるメディアの関係性に注目。それぞれの冒険・探検が当時の日本社会やメディア状況において、どのように取り上げられ、消費されてきたのかを解明する。 bokenbooks.com/items/81689121


仏教学者の中村元(はじめ)先生は、仏教を思想的・哲学的に探究する姿勢が乏しい日本人の傾向を嘆いておられました。それが、最近話題になった「中道」という言葉に対する対応にも見られたので、その点について新聞に書かせていただきました。




クッソ面白い本だった。「何者かになりたい」という切実な願いには、しかし色々ツッコミが入る。何者かというのは結局「有名になること」であって、有名になれるなら「中身は何でもいい」ということではないのか。あるいは、何者かとは具体的に何なのか、結局それは「まだ自分には評価されていない能力がある(と思う)」といった未練的なものではないのか、と。確かに「何者」の中身については、多くの場合、当の本人にもよくわからないというが多々ある。 社長になりたい。医者になりたい。そんなケースばかりなら、話は早いだろう。ところが、多くの「何者か」にはやはり輪郭がない。なりたい対象がはっきりしない。ただただ、「いまの自分では足りない」という飢えだけがそこにある。 本書は、その輪郭のない飢えを分析する。 著者の見立てはこうだ。「何者かになりたい」とは、つまるところアイデンティティ(=自分が何者であるかという感覚)を獲得したいという願いであると。そしてそのアイデンティティは多くの場合、2つの欲求を通じて入手が試みられる。1つは承認欲求、すなわち他者から認められること。もう1つは所属欲求、すなわち、どこかの集団に属していることである。認められ、属する。それによって、ぼくらは「自分は何者かである」という感覚を得ようとする。 しかし、実はこの2つの道では完全には満たされない。SNSで「いいね」がつく。本が出る。バズる。テレビに出る。その瞬間、人は舞い上がるほどの嬉しさを感じる。でも、高揚感はすぐに色褪せる。承認は、浴びた直後から渇いていく。それゆえ「もっと、もっと」と求め続けることになる。承認によって「何者か」になろうとする試みは、ゴールのない競走を強いられることにつながる。 所属のほうにも落とし穴がある。どこかの集団に属せば、確かに「自分は一員だ」という安心感が得られるけれど、集団に属することで得られるアイデンティティは、その集団の輪郭に基本的に依存している。著者がここで例に挙げるのが、排外的な言動で結びつく人々や進学校の生徒のような集団だ。「自分たちは特別だ」という実感は集団の内側にいるあいだは確かに心地よい。でも、それは集団の外との線引きによって支えられた借り物のアイデンティティである。また、それは集団の文化や慣習などに自分を合わせなければ得られないものでもある。そのため、所属によって何者かになろうとすると、結果、自分を押し殺す段階にいずれ至る(ことがある)。 よく考えてみてほしい。 「何者かになった自分」と「何者でもない自分」。ぼくらはこの二つを上と下のように並べてしまいがちだ。何者かになることが「達成」で、何者でもないことは「未熟」だと感じられる。これは、そもそもおかしな話だ。「達成」と「未熟」、その序列そのものが実に疑わしい。なぜぼくらは、いまの自分のままではいけないと感じてしまうのか。その焦りは本当に自分の内側から湧いたものなのか。それとも、絶えず「成長」や「達成」を求める社会の声を自分の願いだと取り違えているだけではないのか。切実に問うべきことが、ここにあると思う。 ただ、著者は性急な処方箋を出すことを慎重に避ける。「こうすれば何者かになれる」とも「こうすれば何者問題に囚われずに済む」とも、簡単には言いきらない。むしろ本書が示すのは、この飢えとどう付き合うかという「構え」に近い。ひとつのヒントとして語られるのは、アイデンティティの構成要素を増やすという発想だ。仕事の肩書ひとつに自分を賭けるのではなく、好きなもの、大切にしている価値観、果たしている役割、そのような自分を形づくる要素を複数持っておくのである。そうすれば、ひとつが崩れても自分が丸ごと無に帰すことはないからだ。 もうひとつ印象に残った視点がある。それは、「交換不可能性」への渇望だ。ぼくらが本当に欲しいのは、たぶん「すごい何者か」になることだけではない。誰かにとって、他の誰とも取り替えのきかない存在であること——その実感のほうも欲しがっている。というか、「有名になること」も、その有名さにおいて他と交換できないレベルが求められる。この意味で、有名さを求めることも交換不可能性への渇望と言える。承認も所属も、突き詰めればこの一点を求めている。 確かに「いいね」の数や肩書きは、分かりやすい。瞬間的に「何者か」になった気にさせてくれる。数えられる・比べられるものはハッキリしている。しかし、それらにはある転倒を起こす力がある。それらを追えば追うほど、ぼくらは交換可能な評価軸のなかへ自分を投げ込んでいくことになるのである。数、肩書き、知名度――そんな数値化や可視化は、いわば「交換可能さを強調する指標」に基づいてなされる営為だ。つまりぼくらは、交換不可能性を求めて、「何者かになること」を求めて、かえって交換可能な存在に、また、交換可能な指標でなされる競争にみずから身を投じていくのである。この捻れに、何者問題のいちばん苦しいところがある。 何者かになろうと焦るとき、ぼくらは足元にあるものを見落としている。すでに自分が誰かにとって取り替えのきかない、掛け替えのない存在なのだということを忘れている。これは、ありふれていて、当たり前すぎる話かもしれない。だからこそ、見えなくなりやすかったりもする。美辞麗句に響くかもしれないけれど、そもそもすでに誰もが何者かになっている。「何者」というか、交換不可能なあなた・自分としてすでに生きてしまっている。にもかかわらず、交換可能な数字的・可視的指標の競争にみずからを晒し、他人と比べながら、わざわざ自分を「何者でもない存在」だと思い込みにいっている。 これは一体何なのか。 ちょっと説教臭い話になるけれど、ぼく自身は他人の目線に興味がない。他人からどう見られるかなど、どうでもいいと本気で思っている。他人の評価に関心がない。たとえば、本選び。流行りとか話題とか、レコメンドで本は選ばない。あと、他人のレビューも読まない。書評も読まない。なぜかといえば、他人がその本を読んでどう思うかにまったく関心がないからだ。関心があるのは「自分がその本を読んでどう思うか」のみ。このXの投稿も、他人のためには一切行っていない。どのみち読書ノートはつけるので、それをXで公開しているだけだ。それに触れて、人が勝手に触発を受けることはあるかもしれないが、その先のことにぼくは関心がない。 こう言うと、「成功者だからそう思えるんですよ」と指摘されることがしばしばある。それも、ぶっちゃけ関係のない話だ。妻がよく知ってくれている。来月の生活もままならない昔から、ぼくはずっと他人の視線にあっけらかんとしている。無到着である。地位や金やビジネスの成功は、ぼくの生き方に微塵も影響を与えていない。 ぼく自身は「何者かになろう」と思ったことがない。「自分は何者なのか」とか「何者でもない自分」などといったことは考えたことがない。「何者」というワードを自分に向かって照射したことがない。ただただ、自分の評価は自分では行えないと思っており、ただただ自分は今日一日なすべきことを熱心になしているだけで、勝手に社会がそれを良し悪しで評価しているだけだと思っている。 ――というおのれのメンタリティと比較して読んでも、本書はめちゃくちゃ面白かった。 熊代亨@twit_shirokuma 『何者かになりたい』イースト・プレス@eastpress_sales #読了 #読書 #読書好きな人と繋がりたい


仏教や道教などの東洋哲学を独自の視点でわかりやすく伝える好著。難解な概念を身近な例えで置き換える手さばきはガチで他にないレベルだ。道教の「道(タオ)」の解説は婚活の話から始まる。いっけん普通そうなのに、すぐに良い感じの相手を見つけて婚活市場から「解脱」していく人は何が違うのか、と。 つまり、婚活強者はなぜ強者たり得るのかを問うことから話が切り出されるのだ。 著者は「『あいつら』は、ふつうなフリをしているだけで、『道(タオ)』の力の使い手なのだ」と説明する。それは、どういうことか。解説したい。まず、引用から。 「婚活は『戦い』といわれる。『年齢』『ルックス』『年収』といったパラメータで、総合値が高い相手をいかにゲットできるか。婚活ゲームのプレイヤーたちは、いわばバーチャル・リアリティの世界にいるのだ。その場にいるようで、バーチャルの世界にいる。もはや、相手の姿はほとんどみえていない」(176頁) すなわち、みな、年収やら何やらのパラメータに目を奪われ、「その人そのもの」を見ようとしていないということだ。しかも、年齢もルックスも「かりそめ」の「夢のようにはかないもの」である。すぐに変化し、あるいは凡人はそれを劣化と捉えるだろう。ところが――。 「『めっちゃフツーなのに、なぜかうまくいく人』は、違う。『戦い』がただのフィクションだと知っている。『道(タオ)』とつながっているのだ。やつらは、『道(タオ)』の使い手。いわば『タオイスト』なのだ。反対に、『スペック』が高いのに『いやなかんじ』の人もいる。相手に『上』『下』をつけるフィクションの世界にとじこもっている。その点、タオイストは、視野がクソ広い。バーチャル・リアリティからぬけだして、ありのままをみている。相手に『上』や『下』のレッテルをはらない。『下』に高圧的になることもないし、『上』にぎこちない態度になってしまうこともない。自分が(バーチャル世界を見るための)VRメガネをはずしているから、相手も心をゆるして、VRメガネを外す。そこは『道(タオ)』のパワーがはたらく場所である。いい感じにならないわけがない」(177頁、( )は引用者) タオイストは勝ち負けにこだわらない。自分の方が上だとか下だとかも思わない。タオイストは、「海」のような境地を目指す。「海」は、あらゆる支流、河川の流れを拒まずに受け入れる。そして、自分をもっとも低きに置きながら(水は上から下に流れるため、低きにたまりやすい)、それでいて争いにならないほどの大きさ、懐の深さを持つ。そのような「真の強者」たろうとする人なら、年収などのスペックはどうでもいいと感じるだろう。むしろ人としての本質を見ようとする。そして、心を開いて話そうとする。すると、相手も心を開いて本質を見ようとしてくれるようになる。 「バーチャル・リアリティからぬけだせば、『スペック』は幻としてきえる。そもそも、みんな婚活の『戦場』に参加している。出会う相手のほとんどは『戦いにつかれた戦士』たちだ。相手と競いあうより、『海』のように受けいれるほうが、絶対モテる。結果的に、そういう人はまわりからみれば高い『スペック』の人をゲットする。でも、本人にはその自覚すらない。 『為して而も恃まず』(老子「道徳経」51章)――偉大なことをなすが、それを誇ることはない。 まわりからみれば『勝った』のだが、本人には『勝った』意識すらない。老子の『勝つ』とは、そんな感じなのだ。これが『めちゃフツーなのに、なぜかうまくいく人』の正体だと思う」(178頁) このイントロから、本書は「道(タオ)」の本質に迫ろうとしていく。書きぶりは大胆。独自性の高い解釈も多い。だが、いちいちそれをあげつらうよりも、著者の「東洋哲学理解」を足がかりとし、思想の跳躍力を体感する方が、本書を読む態度として有益だと思う。 読んでいて楽しかった。 『自分とか、ないから。 教養としての東洋哲学』 著者:しんめいP@Sony_Shimmei 監修:鎌田東二 発行:サンクチュアリ出版@sanctuarybook @Sanctuary_eigyo 編集:大川美帆@ThinkDont













