

めめんと🐰ྀི森{極度研究(しなさい)
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@orz_ted
✐☡山形ときどき大阪のLJK✨(法学/Lawの常勤講師の意)̯ꪔ̤̮*.˚ ┋二本の橋(@Hitotsubashi_U🇯🇵⇄@Cambridge_Uni🇬🇧)を渡って、博士(法学)(一橋大学)になった🐰ྀིの紅茶と自撮りと研究備忘録૮ ܸ. ̫ .ܸ ა






釈迦に説法で畏れ多いですが、この種の議論につき、独法学説的学説の理解・体系化自体は鳩山時代からなされていたところ、我妻栄は独法学説を踏まえつつ「日本学説として」体系化、弟子の星野が日本民法の仏法的要素の「再発見」を行い、「日本民法」の特異性を証明したものと把握しております。



確かに、原初の「法学」については仰る通りですが、近現代、ドイツ的解釈論が発展していく中で「立法者が三語を訂正すれば全図書館は反故になる」と痛烈な批判がキルヒマンによって為されたわけです。ヴェーバー以後も「法学」は「学問(Wissenschaft)」か「技術(Technik)」かと、大問題となってきました。 (私は法制史学者でも法哲学者でもないので、迂闊な言動は避けるべきかもしれませんが)ここで、整理しなければいけない前提として、古代ローマの時代の対象は言わずもがなですが、現在のコモンロー圏、つまりOxfordやCambridgeでも扱われたのは専らCivil law(ローマ法)やJurisprudence(法理学)であって、「実定法学」ではない点、注意が必要であります(英国に於いては、例えば、バリスタであれば、あくまでもInns of courtという、一種の法曹ギルドでの教育で、現在はバリスタ・ソリシタの二種に留まるが、「結果的にこれらが残った」というだけで、所謂「財産」としての特権としての法曹が点在していた)。 確かに、17世紀、グロティウスくらいまでは、(実務の礎になったとしても)専らJurisprudentie(蘭)であると云えるかもしれません。しかし、同様にして、近現代の「法学」は、前述の如き、ドイツ的解釈論の発展に加えて、コモンロー圏の「評釈」による分析手法が逆輸入されてきた点で、「原初の『法学』と同質なのか?」という問題点も同時に存在するものと思います。 上述の意味での学問としての「法学」、テヒニークTechnik としての「法学」、そして、前のツイートで述べた、「科学」としての法学があり、しかし、これが不可分な部分と可分な部分が混じり合っているため、今日のような議論の錯綜があるように思っております。 尚、私のような実力の伴わない若輩者が、そのような大義を掲げてよいのかという問題はございますが、嘗てはエールリッヒが論じたような「生ける法」(奇しくも、ツルナゴーラの立法者ボギシッチはこれを念頭に、「民法典(Građanski zakonik)」ではなく「財産法典(Opšti imovinski zakonik)」に留めたわけですが)や、類似した現象としての現在の国際取引に於けるボトムアップな法典形成など、これらは、「社会」のフレームワークで駆動する点、「社会科学」であり、そもそも「社会」の構築を習性として持つ、「人間」という生物の生態学、その法則学的側面があるのだ!という立場から、「自然科学」的側面も抱えており、無論、この手法に「人文学」的テクスト研究が必要不可欠(安易に翻訳してはいけないことも含め)と思っております。 したがって、「法学とは◯◯学である」と決め打ちするべきでなく、前述の通り、イデアιδέαの如き存在に触れようという営みであるのだから、手法面に注意を払いつつも、そうした「もの」に触れる、というつもりで研究したいと常々思っております。



ありがてぇありがてぇ(from行政法系消費者法研究者

法学の詰まらないところとして、「法学は詰まるところ人が勝手に決めたものと権力の総体であるため」といった大意の話が流れてきたが、これに関して、部分的には首肯でき全体として首肯できない。即ち、「法律学」や法解釈学の一部については確かにそうなのであるが、「法学」とするとこの限りでない。 かく述べるのも、法律学に関しては、起草者意思なり立法者意思なり、あるいは現代の判例上の理解なりを考えるという「人の決めたもの」の文言の解釈の幅を一意にし、起草者や立法者の瑕疵を補うための「技術(Technik)」としての側面は否めない(このような論争自体、何も今日新しいものではなく、19世紀後半から20世紀初頭にかけて、キルヒマンやヴェーバーをして論じられてきた大変、歴史的乃至論争的課題である)。 しかし、例えば「民法典」というものが、何もないところに人が「えいや」と決めて出来上がったものかというと異なっていて、ローマ法学に於いても弁論の中から共通して認められ(合意され)てきた主張や抗弁を集めて体系化したり、現代のフランス法は共通する慣習(droit commun coutumier)を再発見し集成するプロセスに始まる。勿論、これらも「人間が発したもの」を集めたには過ぎないのだけれども、「誰かが意図して決めた」というより、既にある「ホモサピエンスという社会を構築する生き物が形成する、そのホモサピエンス社会に於いて一定の合意形成を為される場合の研究」という、実に生物学的な観察手法を取り出したものに行き着く(これが人間を対象とするがために、社会学なり法社会学といった独自の領域に辿り着く)。尤も、後にこれを法典や、コモンローのような判例法圏であれば個別の判決に叩き直すときに、「人」による修正が入るのだが、それでも全くの「無」から人が勝手に決めたものとは言い難い。即ち、人の生態観察の結果推認された法則(Law)に対して、「人」が法典や判例の段階で修正(Act)を加えることができるにすぎない; 本来コモンロー圏で、法をLaw、立法をActと呼ぶ本意を、筆者はこの点に求める)。面白いことに、この法(Law)にあたる部分は、地理的気候的条件によって変動することもあるのであるから、大変「人間という生き物の生態学」的な部分さえ存する(例えば、イングランドとシンガポールに於ける人的保証の拘束力の違い)。 無論、修正(Act)の段階で、「人が勝手に決めたもの」は混入するので、その部分は「人が勝手に決めたもの」だから自然科学とは大きく異なる点であるが、筆者は、畢竟、この法則、法、Lawの部分とは何かを突き詰めつつ、Actの部分を検討することこそ法学(筆者の専門であると民法学)であると心得ている(この点、Lawの部分を突き詰める過程が理学的なのに対して、Actを踏まえてLawを再検討する意味では、専ら工学的であろう)。 筆者は、社会科を、ホモサピエンスという生き物が、言葉を発し、文字を書き、書を残し、或いはその書を残すための技術を身につけてしまい、人類史なるものを共有してしまったがために、他の生物と特異ならしめられ独立した科学の一分野となっているにすぎないと捉え、研究している。 実は、筆者も法学者の身でこそあるが、「法学は詰まらない」と言われたとき、「人が勝手に決めたもの」に対する学問の部分については、恥ずかしながら同意してしまうのが正直なところである。しかし、「人が勝手に決めたもの」だけが「法学」なのかと云われると、このように否定せざるを得ない。尚、末筆ではあるが、あくまでもこれは論文ではないので、筆者個人が「法学を面白いと思う理由」程度に捉えて戴ければと思う。
