シュガーフィールズ/原朋信

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@thesugarfields

THE SUGAR FIELDS カフェオレーベルスタジオ代表。音楽プロデューサー。AMATERASブランド録音機材、ニーヴくん開発者。Groove Artists Academy校長。元祖宅録KING。原朋信

東京都 Katılım Kasım 2009
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めめのま🐸東京18区
めめのま🐸東京18区@yuchan_syakkiri·
戦争反対!平和が好き!と主張する左派の人たちがテロで命を落とした安倍さんに対して嘲笑しながら罵ったりテロリストの名前に様を付けて「でかした」なんて言ってたのは一生忘れないからね。
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おかざき登@色々準備中
「戦争反対」って言うのはいいんだけど、それ、「痩せたい」と言ってるだけなんよ。 みんなが「カロリーコントロールのやり方」とか「筋トレで基礎代謝を増やそう」とか具体的な話をしてる中で「あなたたちは痩せたくないの!?」とかトンチンカンなこと言ってるから呆れられてるのよ。
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「古臭いご立派さ」 よく整えられた言葉。 よく設計された誠実さ。 「私は善人です」とでも言いたげな顔。 かつてビートルズを批判していたような“立派な大人たち”と、いま日本でロックミュージシャン気取りをしている一部の人たちは、案外よく似ている。 体制を嫌っているつもりで、いちばん古い価値観の型にはまっている。その可笑しさよ。
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トランプ&高市早苗を見ていて、気持ちいいと思うことがある。 あの、少しはみ出した感じ。 整えきれていない言葉。 怒りや確信が、そのまま顔にまで出てしまっているような手触り。 古き良きメディアトレーニングを経た政治家たちの、滑らかで無菌的な話し方とは、まるで別の種類の体温がある。 あれを「おぞましい」とか「品がない」と感じる人もいるのだろう。 その感覚自体はわかる。 その嫌悪が自動的に出てくるのを見ると、その人はいまだに「整えられたものこそ信用できる」という古い文法の中にいるのだろう、と思う。 YouTube以降、人間はかなり変わった。 編集された清潔さより、カットされなかった瞬間のほうに本物らしさを感じる。 完璧に管理された言葉より、少し危うい言葉のほうに、その人自身を見てしまう。 だから今、「古臭いご立派さ」がいちばん嘘くさい。 よく整えられた言葉。 よく設計された誠実さ。 私は善人です、という顔。 それら一式は、いまの目にはむしろ作り物として映る。 人はもう、綻びのほうを信じる。 きれいに並べられた正論より、少し言い過ぎてしまった本音のほうに、思わず動いた一瞬のリアクションのほうに、現実の重さを感じる。 ぜんぶ見せながら、それでも動き続けている人に惹かれてしまう。 ただ、ここで話を雑にしたくはない。 よくあるのは、「ああいう素っぽさも、どうせ計算されているのだろう」という見方である。 それは半分だけ正しい。 たしかに、時代の空気を読んで、“計算されていないように見せる計算”を組めること自体、凡人にはない能力だ。 だが、トランプや高市早苗を見ていて本当に気持ちいいのは、そこではない気がする。 あの人たちは、設計と素が分かれていないのだ。 ああいう出し方が「見せ方」として機能する以前に、そもそも本当にああいう人なのである。 だから強い。 作っているのに作り物に見えない。 本物だから、作ることまで含めて本物として通ってしまう。 ここには、わりと残酷な差がある。 世の中には「自然に見せよう」と努力して、努力している感じだけが残る人がいる。 「本音で行きます」と言いながら、その“本音です感”だけが前に出る人がいる。 「飾らない自分」を売りにしながら、その売り方がいちばん飾っている人もいる。 そういう継ぎ目は、今の時代、すぐ見抜かれる。 いや、正確には、理屈で見抜く前に、身体が先にしらける。 あ、これは演出だな、と。 あ、これは“自然派”というジャンルの商品だな、と。 その点、トランプや高市早苗には、継ぎ目が薄い。 たぶん本人たちも、自分のどこからが素で、どこからが演出か、そこまできれいに分けていない。 分けていないから強い。 分けていないから、こちらも変に冷めずに済む。 気持ちいいのである。 乱暴だからではない。 率直だからでもない。 存在と表現が、ほとんど同じ場所から出ているように見えるからだ。 そして本当に強い人というのは、演出がうまい人ではない。 演出まで含めて、その人そのものである。 そこに届かない人ほど、「品がない」「危うい」「扇動的だ」と形式の話に逃げる。 もちろん危うさはある。 しかし、形式の乱れだけを見て中身の力学を見ないのは、だいたい時代遅れである。 いま起きているのは、単なる“下品な政治”ではない。 整えられた正しさより、地金のまま出てくる力のほうが人を動かす時代になった、ということである。 下品だと笑う人はいるだろう。 だが、時代を動かすのは、だいたい上品な人ではない。
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【カフェオテン v1.5】できました。 紹介動画はこちら👇 既存購入者さま→無料アップデート(個別リンク配布) 未購入の方→今買えばv1.5から。 youtu.be/g9JKhFReNRw
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男が40を超えると、急に始めがちなテンプレ趣味一覧。 筋トレ、ジム、ランニング、山登り、キャンプ、豆を挽く、サウナ、スパイスカレー、蕎麦、ゴルフ……。 もちろん、他人が何をやろうが自由である。 ただ私は、あの「人生をちゃんと楽しんでる俺です」感の定型演出が、どうにも苦手だ。 スタジオDIYのときに薪ストーブを入れたときも、内心かなり恥ずかしかった。 暖房がなかったから実用品として導入しただけで、あれを「俺のこだわりの暮らし」みたいな顔で語る気には、どうしてもなれない。 ログハウスから大自然を眺めるとか、リッチなバーベキューとか、無駄に凝った男の料理とか。 あのへん一式に漂う「わかりやすい中年男性の充実感パッケージ」が、私にはかなりしんどい。 他人がやるぶんには自由。 ただ私は、40代男性のテンプレ自己演出セットみたいな趣味群に、昔からかなり冷めている。 だいたい、筋トレ、キャンプ、サウナ、豆、カレー、蕎麦、ゴルフ……と並んでくると、趣味というより「没個性の高級化」に見えてしまう。 Sugarfieldsの原さんまでそっちに寄ったら終わりである。 「自分の美意識で生きている人」ではなく、 「情報強者っぽい休日を消費している人」に見えてしまうからだ。 それは、私の思うロックンローラーではないw
🅁🄴🄽🄾@renosky99

男は40を超えると… 筋トレを始め ジムに通い 走りだし 山に登り キャンプに行き 豆を挽き 珈琲を入れ サウナにハマり スパイスカレーを作り 中華鍋を育て 蕎麦を打ち 燻製を極めだす

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今日、綾瀬のセブンイレブンに行った。 そこは、ずっと閉まっていた店だった。 外は、真っ青な冬の空。 久しぶりにふらっと立ち寄ってみたら、店は新装開店していた。 店内は見違えるほどきれいになっていて、たくさんの商品が丁寧に並んでいた。 その中で、いつもひとりでバタバタしているパートのおばちゃんが、荷物を運んでいた。 「ああ、おばちゃん、あいかわらずやなあ……」 そう思った、その瞬間だった。 なぜか、涙が出てきた。 僕らは、すべてと繋がっている。 そんな感覚が、ふいに身体に流れ込んできた。 おばちゃん。 店に並ぶたくさんの商品。 それに関わっている、世界中の人たち。 そして、その中にいる自分。 こんなふうに感じたのは、初めてだった。 何かを頭で理解した、というのとは少し違う。 ぜんぶが繋がっていることを、身体のほうが先に知ってしまった。 そんな不思議な一瞬だった。 なんかもう、すべて大丈夫だと感じた。 だから明日、この気持ちのまま、曲を出せるんだなと思った。
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Junko Yasmin יסמין ياسمين 🪬
#偽善 私には非常に不思議なのは、1月7〜8日頃にイラン政府が、自国市民に「NO」を突きつけた子どもから老人まで5000〜3万人を殺害した際に、日本ではこのようなデモが一切起きなかったことだ。 イランでは夥しい遺体や、病院に運ばれた負傷者を革命防衛隊が引きずり出していったのに、日本の市民団体は沈黙した。 あなたたちは本当は子どもの命や市民の命より、ただ反アメリカ・反イスラエルであり、このような非道なイラン政府を支持するという立場を表明しているようだ。
ラサール石井事務所スタッフ@l_ishii_office

新宿駅での緊急街宣「子ども、市民を犠牲にするな〜アメリカとイスラエルの無法なイラン攻撃はただちに中止を〜」に来ています。いかなる理由も力による現状変更を正当化しません。日本はこの攻撃を止めるための多国間の協力体制を築き上げることに尽力すべき時です。 #ラサール石井 #社民党

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AIと音楽、AIと映像は、似ているようで、まったく違う。 音楽でAIを使うことには、私はかなり面白さを感じる。 文章でもそうだ。 発想の補助にもなるし、自分ひとりでは届かなかった場所へ、ふっと連れて行ってくれる瞬間がある。 そこにはたしかに、創作の刺激がある。 けれど、動画になると、どうも同じ熱量では乗れない。 技術としてすごいものが増えてきたのは分かるし、ネタとして面白い映像もたくさんある。 それでも、心のどこかで「これはまだ違うな」と感じてしまう。 たぶん理由は単純で、映像において人間が本当に惹かれるものは、もっと微細なものだからだ。 ほんのわずかな目線の揺れ。 言葉になる前の口元の迷い。 意図していない瞬間にこぼれる表情。 少しだけタイミングのずれたしぐさ。 そういう、予期せぬ“人間のゆらぎ”が、結局いちばん面白い。 人は、整いすぎたものに感動するとは限らない。 むしろ、少しだけ崩れた瞬間や、その人にしか出せない気配に、妙に心をつかまれる。 映像というのは、その「人間のこぼれ落ちる瞬間」を映したときに、強くなる。 だから、AI映像を見ていて感じる微妙な不自然さは、やはり気になる。 いわゆる“不気味の谷”というやつだろう。 すべてどこかで見たような動きと表情。 その違和感は、理屈より先に身体で察知される。 「すごい」より先に、「ちょっと気持ち悪い」が立ってしまう。 一方で、音楽はそこが違う。 音楽における不自然さは、ときにそのまま“味”になる。 かつて、ドラムマシンのあまりに正確すぎるリズムを、機械的で気持ち悪いと感じた人もいた。 初音ミクのようなボーカロイドに、強い違和感を覚えた人もいた。 けれど、それらは消えなかった。 むしろ、ひとつの表現として定着していった。 今では、昔ならチープだと思われたリズムマシンの乾いた質感や、機械っぽい声のニュアンスそのものが、立派な美学になっている。 音楽は、人工性や不自然さを、そのまま表現として引き受けることができる。 そこが面白い。 つまり、音楽は「人間そっくり」である必要がない。 人間から少し離れていても成立するし、その距離自体が魅力にもなりうる。 だが映像は、とくに人間を映そうとした瞬間に、その“少しのズレ”が決定的に見えてしまう。 この差は大きい。 音楽では、AIっぽさが新しい質感になる。 映像では、AIっぽさが違和感として露出しやすい。 同じ「人工」でも、受け取られ方がまるで違うのだ。 だから私は、音楽でAIを使うことには大いに創造性を感じるけれど、映像ではまだそこまで素直に熱狂できない。 面白い遊びにはなる。 発想の実験にもなる。 けれど、深く感動する“人間の揺らぎ”をそこに見るには、まだ少し距離がある。 もちろん、AI映像にも向いている領域はあると思う。 面白映像としてのネタ。 夢、記憶、幻想、比喩、悪夢、象徴。 つまり、人間をそのまま再現することよりも、表面的な意外性や、逆に人間の内面や観念、イメージを描く方向だ。 そこではむしろ、少し不自然なくらいのほうが効いてくる。 ただ少なくとも、 人間の顔がふと見せる曖昧な表情や、 説明できない一瞬のしぐさや、 生きている身体の偶然の揺れに宿るもの―― あの領域は、まだやはり人間のものなのだと思う。 小津安二郎の映画で、AIロボットはどんな演技をするのか…
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綺麗な手と、汚れた現実――「ほなどないせいゆうねん」の向こう側 世界が炎上しているとき、決まって聞こえてくる「正しい言葉」がある。 「暴力はいけない」 「国際法を守れ」 「命の重さは平等だ」 どれも、反論の余地がないほど正しい。 そして同時に、驚くほど無力でもある。 こうした言葉を耳にするたび、私たちの喉元まで出かかって、ぐっと飲み込むひと言がある。 ――ほなどないせいゆうねん。 つまり、「じゃあ、どうしろと言うんだ」という、乾いた問いである。 イランの抑圧も、アメリカやイスラエルの武力行使も、どちらも批判されるべきだ――という言説がある。 論としては美しい。 だが、現実の国際政治は、右の頬を打たれたら左の頬を差し出す聖人たちの集会ではない。 そこにあるのは、 どちらかを選べばどちらかが死ぬという現実であり、 あるいは、どちらも選ばなければ、全員がより悪い形で沈んでいくという、出口の見えないトレードオフである。 「どちらも悪い」と語る人は、一見すると中立で、理性的で、慈悲深く見える。 だがその姿勢は、地べたを這いずり、返り血を浴びながら、それでもなお「よりマシな地獄」を選ぼうとしている当事者から見れば、安全圏からの高みの見物に映るだろう。 解決策を伴わない善意は、ときに暴力以上に残酷である。 なぜならそれは、問題を引き受けることではなく、解決不能な現実の前で、自分の「心の清らかさ」を守ることへと、静かにすり替わってしまうからだ。 「法が恣意的に選別されず、命の重さが国によって変わらないこと」 それは、間違いなく美しい理想である。 だが、その理想を語るだけで現実が動くのなら、歴史にこれほど多くの戦争は刻まれていない。 私たちがいま、喉に刺さったトゲのように感じているこのやり切れなさ。 その正体のひとつは、理想を語る人間の手の綺麗さにあるのかもしれない。 泥にまみれず、 リスクも負わず、 ただ正論という石だけを投げ続ける。 その無垢すぎる善意が、かえって現実の複雑さを塗りつぶしてしまうのである。 もちろん、理想そのものを捨ててしまえば、世界はむき出しの力だけが支配する、野蛮な場所へと後退するだろう。 だから理想は必要だ。 ただし、それが意味を持つのは、「では、どう動くのか」という具体性と結びついたときだけである。 「ほなどないせいゆうねん」という問いは、決して冷笑ではない。 それは、綺麗事の空虚さを見抜いたあと、それでもなお泥臭い現実の中で、何とか一歩を探そうとする者の言葉だ。 「ほなどないせいゆうねん」。 そこからしか始まらないリアリズムがある。
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