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V林田
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V林田
@vhysd
「だけど、また半荘を最初から始めれば、みんな帰ってくるんだよ。ドラも、阿知賀こども麻雀クラブのメンバーも。きみだってそうなんだ、玄。まだ小さいから理解できないかもしれないが、きみだって同じなんだよ」 同人誌はhttps://t.co/VzkB1RSSze 連絡は[email protected]
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@vhysd 村山さん、誠実だと評され実際そうだったと思うのですが、労組などの現場から社会党の国対までやった人が単に「いい人」なわけはないと思うのですよね。
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こう書くのは、基本的に中立的であろうと書かれている本だとは思いますものの、どうしても「江田を放逐して社共路線取るより社公民路線取ったほうがまだ自民を追い詰め得ただろう」みたいな感じの筆致にはなってるからです。まあ現実に成功しなかった以上たらればは言われる
V林田@vhysd
境家史郎『戦後日本政治史』(中公新書)読んだ。面白い。もっとも、俺のポジが昭和なら社会党右派~民社くらいのラインなのでそう感じるのであり、社会党左派~共産くらいの人は納得せんかも
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それが良い世の中だと言ってるわけではないですよ(保守は政権を維持し続け、革新は常に目標を達成し続けられるという意味ではそりゃまあウィンウィンかもしれんが)
V林田@vhysd
この見方に立つなら、自民は「改憲する(するとは言ってない)」というムーブをし続け(そして革新側の「改憲阻止」という反応を引き出せ)れば政権維持はほぼ安泰になるという感じがしますね
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"施設の建物は、漫画「子連れ狼」の原作や初期の「ゴルゴ13」脚本に関わったことで知られる、漫画家・作家の小池一夫さんの別荘として使われていた物"
小池せンせいの別荘、一度泊まってみたいかもしれン。大曲に行くことあまりないが……
大仙経済新聞@daisenkeizai
大仙・花館に民泊施設「YANAGIYA」 有名作家の元別荘を一棟貸し daisen.keizai.biz/headline/278/ #大仙市 #大仙 #大曲 #仙北 #協和 #美郷 #太田 #中仙 #角館
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大仙・花館に民泊施設「YANAGIYA」 有名作家の元別荘を一棟貸し daisen.keizai.biz/headline/278/
#大仙市 #大仙 #大曲 #仙北 #協和 #美郷 #太田 #中仙 #角館
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本当に傑作だと思う。こういうのを書いてみたい。/iPhone11を直す/兄について|momometro note.com/mmmetro/n/n5be…
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【マンガの時代】
「俺は、いちばんいい時代に、漫画の業界の片隅にいさせてもらった。とてもラッキーだった」
これは、父の吉森みき男がよく言っている言葉です。
確かに父は1965年漫画家デビュー、70年代、80年代、90年代前半までが活動期で、日本の少年漫画産業が勃興し、全盛期を迎える成長の時期と重なっています。父は、スターでも大御所でもありませんでしたが、地味ながら業界でご縁をいただき、連載を抱えながら漫画家としてこつこつ真面目に働いた人でした。漫画産業の市場の成長の恩恵を目いっぱい受けた人だったと言えるのかもしれません。
私の幼い記憶の中の父は、自宅2階のアトリエで、タバコの煙の中、アシスタントさんたちを指示しながらひたすら原稿を描いている姿です。家には24時間関係者が出入りし、編集者さんからの電話が鳴り響く。夜中も電気が煌々とついていてワイワイ物音が聞こえる。母は田舎から出てきているアシさんたちのために、早朝から夜まで手料理を作って食べさせる。自宅がなんだか合宿所か町工場のような感じでした。場所も下町でしたし、映画『寅さん』に出てくるタコ社長の町工場を思い浮かべていただけるとピッタリです。
父の睡眠時間はあのころ、3、4時間。自宅の目の前にあったアパートを借りてアシスタントさんの寮にしており、子供だった私と弟は、そこを遊び場にしていました。ともかく依頼があればあらゆる雑誌に描き、時にはテレビなどのメディアに出たり、ある作品の単行本が100万部を突破したときは都内のホテルでパーティも開催しました。アシスタントさんを連れて社員旅行もしたり、ともかく忙しかったという印象です。
しかし、80年代が終わるころ、父の年齢が40歳を過ぎると、仕事に陰りが出ました。簡単に言えば、時代に乗り遅れ、売れなくなったのです。業界の評価は急に『過去の人』となり、頼りにしていた同世代の編集者さんたちも、偉くなって現場を離れたり、辞めたりして去っていきました。
父は改めて持ち込みを始めましたが、もう若手ではないので、周囲の視線は冷たかった。そうなると作品のパワーも上がらない。父はクリエイターとして、40を越え、50前後で、仕事がなくなったのです。世のマニアと呼ばれるひとびとは残酷なもので、息子の私にすら、わざわざ近づいてきて、皮肉や意地悪な言葉をぶつけてくる人までいました。ま、あるあるですけどね。
そんなこんなで我が家は、90年代から、経済的に非常に苦しくなりました。不思議なもので、あんなにあった蓄えも、資産などというものは一気になくなるものなのです。それがフリーランスというものだということは、少しでもフリーを経験したことがある人なら、わかるのではないでしょうか?
幸運にも私は就職しましたので、新入社員ながら私の給料が家族の収入源となりました。私がどんなことがあっても会社を辞めたりしなかったのはそのせいです。私は実は20代で一度小説家デビューしていますが、そのときも辞める気は全くありませんでした。当時はいろんなものを切り売りしながら生活している状態で、父も弟もあてにならなかった。「俺が安定していないと家は崩壊するぞ」という気持ちが常に頭にあり、私の人生は極めて保守的なものになりました。ま、楽しかったから全然いいんですけどね。のんきな性格と、気のいい友達たちのおかげで、なんとかやってきました。友達と会社には本当に感謝しています。
でもまあ、本当の人生は何かを失ってから始まるもので、その真理は、ずっと変わらないものだと思います。若い時期にそれを知ることができたのはよかったです。
こうして我が家にもいろいろありましたが、一家がいちばん幸せだったのは、マンガの熱気の中にあった70年代だったような気がします。今世紀に入って、仲の良かった先生方が次つぎ亡くなり、老いた母は「ああ、みんな元気で、わくわくしていたのにね。XXX(著名な漫画家)さんが恋人を連れてきて、結婚するんだなんて言って、みんなでお祝いしてねえ。あのころが夢のようだわ」などと言います。実は、私が生まれる前、婚約時代がいちばん楽しかったんじゃないかなあ。そんなふうに両親の若き日を想像するんです。
あの頃の空気感を、なつかしむように小説にした。それが今回の作品です。もちろん小説なので創作なのですが、個々のエピソードは、父から聞いた話を元ネタにしています。そして、ヒロインは、母の名前(アキコ)にしました。リスペクトをこめて。
懐かしいあの頃を思い出しながら、小説『練馬純情伝』をぜひご一読いただき、感想を聞かせてください。
昭和のマンガ界は熱いぜ。
(『練馬純情伝』プロモーション投稿)
#講談社
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