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神様は、いつも、みんなが幸せになるための道を説いている。
それは、「隣人を自分自身のように思う。」とゆうことだ。
優しさをもって、少し考えれば分かるはずだ。
隣人とは、まさに自分自身であるとゆうことが。
隣人にする事とゆうのは、自分自身にする事と同義なのだ。
ひいては、それは、神様や、イエス様にした事と同義でもある。
私達は、日常の中で、人に対して愛情表現をする機会がたくさんある。
その一つ一つを、日々忠実に、心を込めて、するべきだ。
それは、苦しみではなく、むしろ、喜びであると理解すべきだ。
神様は、私たちのために、愛情を表現する場を、たくさん設けているし、その機会は、常々、訪れ続けている。
神様は、私達に、隣人と愛し合いなさいと言われている。
隣人とは、本質的に、隣に居るその人だ。
職場の同僚や、学生ならクラスメイト、あと家族やご近所さん、買い物などをしたら店員さんもそうだし、もっと言えば街ですれ違う人みんな隣人だ。
その人たちに対して、何かできることが少しでもあれば喜んで自分を捧げれば良いのだ。
例えば、小さな事でゆうならば、挨拶だ。
少し大きくなると、落とし物を拾ってあげたりだとか、もっと大きくなると、疲れていたら労わって肩を揉んであげたりすることもできる。
仕事を手伝ったり、勉強を教えたり、何気ないことで小さなことでもアシストしてあげたり、褒めてあげるのもその一つだろう。
いくらでも愛することはできる。
今現在、この場は休んでいても良い。
しかし、いざ隣人が目の前にいたら、あなたは、隣人を愛するチャンスが、常々、到来している。
それを、喜んで行うべきだ。
【なぜならば、隣人は、あなた自身だからだ。】
隣人の幸せは、あなたの幸せだ。
隣人の不幸は、あなたの不幸だ。
(仏教だと、このことを、無我、とゆう。)
だから、困っている人は、迷う間も無く、すぐに、助けてあげるべきだ。
とゆうわけで、
【もうすでに、神様は、あなたの葡萄畑を作り準備を万全に整えてくださって収穫を待ち望まれている。】
イエス様は、あなたのために自ら十字架にかかって下さった。
あなたのために、そこまでして下さった神様を、あなたは、喜ばせたいと思うべきだ。
神様は、あなたが、イエス様ご自身のために、喜んで従うことができる土壌を、作って下さっているではないか。
これは、僕の願いだが、
『人生とゆう葡萄畑の土壌を用意して下さった神様に、
どうか【甘くて美味しい葡萄】をより多く届けてあげて下さい。』
それが、御心であって、あなた自身が、世界で一番幸福になる、不幸の道から救われる、チャンスです。
仏教的理解で、人間的にも好かれるようになるが、それは、計算してはいけない。(右手のしていることを左手に知られないように(ようは、人間からの見返りを一切求めないとゆう事))、
神様の奇跡の力で幸せになることを期待して下さい。
全ての見返りは、神様が保証して下さっているので、絶対に人間からの見返りは求めないこと。(見返りを求めているからやったんじゃなく自分がしたいからしたとちゃんと説明すること。相手には、「神様から見返りをもらえるからあなたからは要らないよ。」ちゃんとゆうこと。)
しかし、
これは、経験から言えることだが、
本当は、、
【見返りなど無くても隣人(全ての人)の幸せは自分の幸せだ。】
と気付けたら神様の伝えたいことの全てが伝わってる状態です。
それに気づいてこそ、本当に世界で一番幸せになれます。
これが、神様の望んだ本当の収穫です。




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