SAJDI Lab.
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@SAJDI_LAB
「全盲の黙読」手法を研究中。見えない状態でどのように情報を深く処理できるかを、30年以上にわたり認知科学・点字技術・インターフェースの観点から探究。発達障害・難読症への応用も模索しながら、社会実装を目指しています。



【閑話】 私は、研究対象については『全盲』と書き、人権や制度などを扱うときには『視覚障害』と書く。 視覚障害には種類と段階があり、その連続性を『グラデーション』と呼ぶこともある。 色差や明暗の判別が困難な色覚障害向けのインターフェースは、全盲には意味がない。一方で、全盲向けのインターフェースは、色覚障害にとっては冗長に過ぎる。同じ視覚障害であっても、グラデーションのどこを対象にするかによって、支援内容は大きく変わる。 私の研究対象は、『触覚、聴覚を使い、点字や音声を通じてのみ情報を得るひと』である。さすがに長い。だから便宜上、もっとも近しい『全盲』という語を使っている。 もちろん、『全盲』も状態を指すのか、人を指すのか曖昧ではある。そのあたりは文脈で察するように書いているつもりだ。 『当事者』という語は、原則として使わない。 当事者という言葉には、ものごとに直接関係した特定の人格を指す印象が強く、正直なところ、私には使いどころがあまりない。福祉や啓蒙の文脈では頻繁に登場する。多くの場合、それは『情報の主体や責任を曖昧にする方便』のように使われているように見える。 日常生活の中で、当人が自分をやわらかく表現するには良い言葉だと思う。 ただ、技術や論理を扱う場面での『視覚障害』や『障害当事者』という言葉は、あまりにも曖昧で、実際には何も捉えていないに等しい。 言論や資本による派手な統合には魅力がある。 同じように、『視覚障害』や『障害当事者』といった、曖昧に統合された言論にも魅力がある。 しかし、統合には基礎が必要だ。 個別の、ひとつひとつの取り組み。 あまり人気はないけれど、そういう地道な積み重ねに興味をもつひとが増えると期待している。











「合理的な配慮」は、障害者の我儘を聞き入れることではない。 障害者の要求を絶対とし、強制的に実行させるのは「絶対的な服従」である。 基本的人権を認める社会において、一方的な服従を強いるのは異常事態であり、暴力的な支配に他ならない。 エレベーターのないビル、2階の店舗。突然訪れた客が、たった一人の店員へ「担いで上がれ」と要求し、それを義務だと言い張る。これは「合理的な配慮」ではなく「暴力」だ。 「踏切やプラットフォームは危険だから、全箇所に駅員を常駐させろ。さもなくば裁判だ」と迫るのも同様である。 合理的な配慮は、絶対的な服従ではない。 日本が2007年に署名した「障害者権利条約」。その原文にある「Reasonable Accommodation」を「合理的な配慮」と訳した。よい翻訳だ。 「合理的」とは、客観的な理由が論理的であり、過度な負担がなく、実現可能な筋が通っていること。それらを検討した上で適切と認められる状態を指す。 「配慮」とは、個別の状況に応じた変更や調整、便宜を図るための具体的な行動を指す。 合理的な配慮は、提供者だけでなく、障害者当人にとっても容易なことではない。なぜなら、そこには提供者との「対話」と「交渉」が不可欠だからだ。 単に要望を叫べば済むわけではない。相手の事情を聴き入れ、折衷案を探り、落とし所を見出す。その建設的な対話のプロセスこそが、合理的配慮の本質である。




