かじゅ@コーチ&ファシリテーター📣
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@kajuoh
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【デジタルを正式教科書に 閣議決定】 news.yahoo.co.jp/pickup/6575436




本日、およそ1年ぶりの「これ」


ビジネス界隈における「問いを立てる」という言葉遣いに対するモヤモヤって確かにずっとあった。 そんな違和感の理由を近内さんがズバッと言い切ってくれていた。これは本当にそう思う。











こんな面白い本があったのか。ヒトはものを把握する際に眼を使う。他方、眼が未発達の幼児は手を動かし、手で掴み、ものを把握する。実は大人になってもその機能は生きている。手は他者から触れられ、支配される器官であり、他者の支配から自分を解放する器官でもある──ここらの展開がさらに深い。👉 多くの支配者は、抑圧したい相手の自由を奪う時にまず手を拘束した。手は支配のシンボルでもある。他方で、クリミア戦争の帰還兵の神経を落ち着かせるために編み物や刺繍が奨励されたという事例からもわかるように、支配のくびきや抑圧による傷つきから人を解放するのも手であり、手作業である。 西洋には「手を暇にさせておくと悪魔が取り憑く」という言い伝えがあるという。そのため、扇子や手袋、嗅ぎ煙草などは手を忙しくさせる格好の道具になった。以前、ひろゆきさんが、肉親の死の悲しみに沈む人に「手作業で集中できることをした方がいい」と提案していたが、それも故なきことではない。 そもそも意識の形成と発達には肉体という器が必要で、身体にまつわる慣用句は身体感覚なしには生み出されないものだ。ハラオチという表現も、納得した時に感じる腹のあたりの「あの」感覚がその意味を支えている。 人間の生長にとって、この意味で手は不可欠だし、言葉や文化も手によって進化してきたといえる。 もし手がなかったとしたら(怪我などで使えない場合というのではなく、種として手という器官を経験していなかったとしたら)、下手をすると人類の知性はまったく違ったかたちになっていたかもしれない。 また、手で掴むという行為は、ときに命の叫びにすらなる。 「驚異に晒されたとき、私たちは――たとえ、掴むことが生き残るという目的に直接的に結びつかないとしても――何かを掴もうとする傾向がある。つかまるための何かは人工物であっても、自然物であってもよい。ロープやいかだ、木の幹にぶら下がるシーンを含む小説や映画を考えてもよいだろう。ヘルマンの理論に従えば、いたるところに見られる『何かにぶら下がる』というこのシーンは、母親の身体からの早期の分離にフォーカスしたイメージということになるかもしれない。私たちは、そこから振り落されることを恐れ、そこに引き戻されることを切望しているというわけである」 崖から落ちそうになった友やヒロインやライバルの手を主人公が握って、引き上げる、あるいは宙吊りになるあのシーン。または崖から相手を引き上げるあのシーンなどが好んで描かれる理由も、実はここにあるのかもしれない。 母と自律についても次のような考察がある。 新生児は起きている時、自分の顔や体に触れていることが多い。興味深いのは、特に口に触れている時間が長いということである。乳児の手でつかまれた物(対象)は口に運ばれ、まずテストされる。赤ん坊は子宮の中ですら、せわしなく手や指を動かしている。広げたり、丸めたり、曲げたり伸ばしたり、あるいは口へと引き寄せた親指のおしゃぶりをするなど──つまり「人生における最初の一年間、手は、口によって支配されている状態から自らを解放しなければならない」のである。この過程を経て、赤ん坊は自律を手に入れることができると本書は述べる。 「『自律』という概念は、たいていは子どもが母親から分離するという文脈で論じられ、後の段階では、世界のなかに自分の居場所を見つけようとする青年期の闘争を意味する文脈で論じられる。しかし、自由を得るための最初の戦いは、これら二つの時期よりもずっと前に、手と口のあいだで繰り広げられている」 手は、ヒトの身体、精神、そして知性を羽ばたかせる器官である。 『HANDS(ハンズ) 手の精神史』 著者:ダリアン・リーダー 発行:左右社 @sayusha






